次世代応援企画「break a leg」
「break a leg(ブレイク ア レグ)」とは、これからパフォーマンスを始める人に向かって 「成功を祈る」という意味で用いられるフレーズ。本事業では、若手表現者に会場を提供し、 次代を担う才能の発掘・育成を目指します。 新風を吹き込んでくれる表現者たちの競演にご期待ください。

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(写真左より、泉寛介、佐伯有香、長谷川寧)
AI・HALLの新事業として、今年度より「次世代応援企画 break a leg(ブレイク ア レグ)」を開催いたします。アイホールディレクター岩崎正裕、並びに参加する3カンパニーの演出の方々より、本企画および各公演についてお話いただきました。

◇アイホールディレクターより企画趣旨について
岩崎: 「次世代応援企画 break a leg」は、本年度から始まります。去年、募集をかけまして、関西のみならず、関東、東海地方、福岡、長崎などたくさんの地域から26団体の応募がありました。その中から3団体を選出し、本日は、それぞれ演出のみなさんにお越しいただきました。
この企画の立ち上げの経緯についてお話いたします。アイホールは、1988年に若い世代の舞台表現を支援する目的で開館しました。それから年月が経過し、今、上演する団体の多くは、演劇界でも中堅の40代や30代後半の人が多くなっています。逆に言いますと、若い世代と連携する機会が減少傾向にあるとも言えるわけで、アイホールと若手の間に少し隔たりが出来ているのではないか、若い世代にもっと門戸を開こう、という趣旨から、次世代を支援する企画を立ちあげるに至りました。ただ、正規の料金で劇場を若い人たちに提供するのは酷であろうということで、「共催」というかたちで会場費と付帯設備費を無料でいかがですか、という提案の仕方をさせていただきました。企画名称の「break a leg」ですが、英語圏では、舞台袖から役者を送り出すときに「good luck」と言ってはいけないそうです。「good luck」と言うと、失敗や事故が起こったりすると信じられており、「break a leg=足を折れ」という言葉を掛けるそうで、つまりはそういう呪われた言葉です(笑)。「break a leg」は「good luck」を意味するととらえてください。すなわち、アイホールから若い世代に、「good luck=幸運を祈る」と同じ意味で、舞台用語である「足を折れ!」という言葉を投げかける、それを企画タイトルにさせていただきました。 今回、この3団体を選出した理由をお話します。baghdad caféは、3団体のなかで私が実際に拝見したことがある団体です。昨今の若い世代が、ポストドラマのようにどんどん物語性から離れていくことも多いなか、baghdad caféは物語性がはっきりしていると感じました。應典院の「space×drama」という企画で最初観たとき、女性が書いたんじゃないかというくらい女の子たちの内面が実に見事に描かれており、それでいてドラマの展開はすごくスピーディで、まだこういう劇団があるんだと、非常に驚いた記憶があります。今回の応募映像は、私が実際に観た作品とは違ったんですが、非常に面白い作品だと思いました。双子の未亡人は、 昨今、コンテンポラリーダンスでは演劇のほうに越境してきている作品も多いなか、彼女たちの作品は非常に身体のコンテクストというか文脈があって、こういう言い方が良いのかわかりませんが、私はダンスらしいダンスであると思いました。 冨士山アネットは東京でも評判のカンパニーです。非常に新しいスタイリッシュな劇であり、非言語による表現ですが、身体が発する言葉を重要視していて、演劇の中にある関係性を私は力強く感じました。今、関西でここまで作り込んでいる集団は演劇側では少ないと思いまして、圧倒的に舞台の力がある冨士山アネットに今回入っていただきました。   
■baghdad café『サヨナラ』について
泉: baghdad caféで作・演出を担当しております、泉寛介(いずみ・ひろすけ)と申します。うちの劇団は、どこかの大学を母体に出てきたとかではなく、お芝居をやりたい人が集まった劇団で、僕と、一瀬尚代とハシグチメグミの2人の役者と、音響とサポートスタッフ、計5人でやっております。僕らの劇のスタイルはあくまで「普通」で、日常をいかに描いていくかが基本です。特に興味があるのが、内面的な部分、いわゆる精神世界や妄想や、その関係性で、そういうものを日常レベルで大切にしていこうと。だからお話の内容も、おじいさんとおばあさんが喧嘩して仲直りしたりだとか、姉と弟が喧嘩して弟が家出しちゃったりだとか、そういう、皆さんどこかで経験したり見たことがあるような話を、丹念に表現しています。ただ、ちょっと違った見方・・・例えば、登場人物が全然動かなかったりだとか…そういう普通の見え方とは少し違った見え方で表現していくことに重きを置いている劇団です。
今回上演する『サヨナラ』は、初演を2007年にロクソドンタで行っています。そのとき、劇場の若手の登竜門的なフェスティバルで、運良く賞をいただいて、同じ年に再演させてもらいました。今回で3度目の上演です。初演時は、「これで食っていくぞ」みたいなことは考えていませんでした。正直、お芝居やりながら仕事もやって、プライベートもあってとなると、生活がどんどんきつくなっていってしまい、お金も時間もないし、楽しいのは楽しいんですけど、日曜日終わって月曜日の朝を迎えるのがすごくしんどかったり(笑)。それで、これで最後だと思って書いたのが、この『サヨナラ』だったんです。で、そこで賞を獲っちゃったりしたもんですから、まだやれって言われているのかなと勝手に良いように解釈してしまって。だから、「しっかりやってみよう」と意識をした作品でもあるんです。 『サヨナラ』は、これで最後だということが前提にあったので、今まで僕が経験してきたことをひっくるめたものにしようと思いました。なので、コントがあったり、アングラ演劇があったり、会話劇があったり、エンタメ演劇があったり、ダンスも少しやったりしています。題材は、中学2年生のときに体験した阪神淡路大震災からきています。僕の実家は兵庫県の三田なんですが、やはりすごく揺れて、知り合いが亡くなったりしました。数か月後、母と兄と一緒に三宮から元町まで歩いたことがあって、「何だろう、この見たことがあるのに迷路みたいな街は?」と思い、今もその風景がビジョンとして残っています。日常だと思っていたものが日常じゃない。どちらかというと虚構のようなのに、それでもこれが日常だ、という何だかおかしな構造。それを書きたいと思い『サヨナラ』というお芝居をつくりました。 東日本大震災があって以降、表現者は何かを考えたり感じたりしていることが多く、僕自身も考えたり、そういうお芝居を観たりしたんですけど、距離もあったせいか、何か希薄な部分も自分の中にあって・・・。考えなきゃいけないという使命感と、それに対するアンチな気持ち・・・。僕は中小企業でサラリーマンをしているんですけど、サラリーマンの年収って、一人暮らしの生活でもちょっと苦しいんですね。それで、例えば結婚して子供ができて、さらに苦しくなっちゃうと、演劇、どうしたらいいんだろうと考えちゃうんですね(笑)。でも、そこでもう一回立ち返りたい、僕の周りから見える世の中や日常を見直したいという思いで、今回、この作品を上演します。
見どころは、ダンスやコントを交えたり、割と派手にやっているところです。7つの小さなお話が集まった短編集ですが、ひとつひとつのお話が、全部違う演出法になっています。あとは、出演者が20人くらいいます。それぞれがそれぞれの表現をしてもらって、そこでの化学反応を観ていただければ、見応えのあるものになると思います。
■双子の未亡人『G-g(s)』について
佐伯: 双子の未亡人の佐伯有香(さえき・ゆか)といいます。双子の未亡人は、私と荻野ちよという女性ダンサーとの、ふたりのダンスユニットです。2003年に結成したのですが、コンテンポラリーダンスを踊ることもありますし、お色気系のダンサーのバックダンサーをした時代もありますし、着ぐるみを着て踊ったり、バンドの人と一緒にやったり、エンターテインメント系のこともしたりと、基本はダンスですけど、自由自在にスタイルを変える形式で、今までやってまいりました。 去年から、もう少しダンスでシンプルなことをしたいと思うようになり、それでつくった作品が『Groundless-ground(s)』です。2011年7月に、新長田のArt Theater dB KOBEで上演しました。その作品の“続編”という形で、タイトルも『G-g(s)』と改題し、ぎゅっと凝縮してアイホールの公演に臨もうと思っています。私は京都を拠点に活動しているmonochrome circusにダンサーとして所属し、そこで10年くらい踊っています。なので、break a legに参加させていただく話を他の方にしたときに、「(若手じゃなくて)中堅なんじゃないか」とよく言われるんですけれども、<双子の未亡人で作品をつくる>という意味では、新人という気持ちでやらせてもらっています。さらに今年から、演出・振付が私だけになり、荻野はダンサーとしてのみ参加するので、気持ちとしては一層新しいです。 今回の作品のテーマはすごくシンプルで、“記憶”です。“記憶”を、ダンサーの目線から切り取り、舞台に載せています。“記憶”の、特にすごく<曖昧な部分>に興味を持っています。言語化される前というか、言語にしてしまわない部分というか、そのあたりを、身体そのままで表現したいという願望があります。記憶って、生まれてから今までのあいだで、すごく膨大な量があると思うんです。でも、それを言葉で残すことは、私には簡素に感じられます。なので今、体感して、言語じゃない記憶として身体が持っているものを、抽出していく作業をしています。よくダンスのワークショップで、踊ったあとに話し合おうとする場があるんですが、そういうことももちろんアリだと思うのですが、そうではなくて、本当に身体そのままで残してしまう、という作業をしています。作品の中に「会話」というシーンがあるんですが、最初、ダンサー2人にそれぞれお題を持って来てもらって、それを身体で「会話」してもらうんです。そのうち、だんだんお題を無くしていって、本当に身体と身体だけで会話をしていくことに今チャレンジしています。 見どころは、踊り出す前の空気感だったり、ダンサーの動きから生まれてくる関係性だったり、振付が生の舞台に上がった瞬間にパフォーマーによって即興へと塗り替えられていくライブ感だったりが、(観客が)舞台を観ているまさにその瞬間に“記憶”になっていくんだということを、実際に劇場に足を運んでいただいて体感していただくことだと思います。
■冨士山アネット『八』について
長谷川: 冨士山アネットの長谷川寧(はせがわ・ねい)です。2003年結成ということで、双子の未亡人とbaghdad caféと一緒なんですよね。実は、「break a leg」に参加する3カンパニーとも、10周年記念公演なんですよね(笑)。 僕は東京で活動していますが、2011年に『家族の証明∴』を大阪でやらせてもらったのが初めての関西公演です。今回の作品は、去年の夏に、東京と京都と福岡で数日間ワークショップをしたことからはじまりました。「悪夢」というテーマで参加者から話を聞いて、そこからでてきた「悪夢」を発表公演として上演するという企画だったのですが、それが結構面白くて・・・。話を聞くと、「悪夢」の多くのものが、「落ちる」「殺す」「殺される」「飛ぶ」なんです。例えば「落ちる」だったら、ずっと落ち続けるとか…。今回の『八』は、2001年に上演した『鼻男』という作品に、地域で集めた「悪夢」から得たもの、そして、今、自分が考えていることを足して、改変して、ほぼ新作のような状態でつくりました。今年1月に東京で上演し、6月1日に福岡演劇フェスティバルの最後の演目としても上演させていただきました。 僕の作品は、最終的にはコンテンポラリーダンスの表現に近い状態になっているんですけど、ダンサーも俳優も出ますし、すべて台本があります。台本を書いて、読み合わせをして、読み合わせのダメ出しをして、台詞もちょっと覚えてもらい、立稽古して、そしてそれを全部捨てるという作業をやっています。無駄の塊ですね(笑)。今回も60ページくらい普通の演劇の台本を書いています。これは世の中には出る予定はないんですけど。だから、ダンスと演劇の合いの子というスキマ産業をさせていただいています。 兵庫は初めてなのですが、僕の中では伊丹のアイホールは、ダンスもやっていれば演劇もやっている劇場、というイメージがあります。それで今回そういう劇場だったら(カンパニーの作風に)合うのかなと思って応募させていただきました。 今回の舞台はランウェイで一本道になっています。お客さんには両サイドから観てもらうので、ランウェイを挟んでこっちから観るのと反対側から観るのとでは、少し内容が違います。真ん中を幕で遮るシーンでは、こっち側とあっち側で起こっていることや出ている映像が違ったりします。3回公演があるので、お客さんには逆から観ていただいたり、友達と一緒に来てあえて別れて座ってもらったりしてもらえれば面白いかなと思っています。また、役名とあらすじが書かれたパンフレットを渡しますが、(読んで)そこから内容を想像してもらっても、(読まずに観ていただいて)お客さんによって全然違う印象が得られてもいいと思っています。たとえば僕自身、サスペンスものの話で、犯人がわかったあとに、犯人の過去やどうして殺したのかという動機を語るのがすごく嫌いで。背景はそれぞれがどう思おうがいいと思っています。なので、今回もいろんなことをお客さんに感じてもらえればいいなと思っています。 今年は、9月に東京芸術劇場でのイベントに参加することと、韓国のフェスティバルで国際共同製作を行う以外、本公演はこれのみです。参加団体の中で最後の上演になるので、10周年記念公演! という気持ちで、いろいろ詰まった作品にしたいと思います。折角の機会なので、ぜひ関西の皆さんに観てもらいたいと思っております。
■質疑応答
Q.3カンパニーともリクリエーションの作品ですが、演出や台本は変わりますか?
泉: 7つのお話のうち、7つ目だけ台本を変えています。他は一緒です。1話ずつは短編なんですけど、どこかで全部繋がっています。その7つ目の繋がり方が気に食わなかったので、今回はそれをガラッと変えました。ただ、演出は全部変えているので、見た目としては全然違う作品になっちゃってます。
佐伯: 私も変わっています。最初は完全に再演でするつもりだったんですが、前回のダンサーが2人抜けて、新しいダンサーを3人起用しています。そうすると、やっぱりダンサーの身体に頼る部分が結構多かったので、作品がどんどん変わっていっており、8割違う作品になってると思います。
長谷川: 2001年の『鼻男』の初演では、演劇だったので、そういう意味では全然違います。ただ、そのときに好きだった演出、例えば紙をいっぱい使ったり、お客さんを2つに分けて観てもらうという大枠は残っています。あと、今年1月の『八』としての初演からは、キャストも1人変わっています。アイホールは、東京で上演した劇場よりかなり空間が大きいので、演出とか振付もちょこちょこ変えていまして、出来は良くなっているはずです。
Q.先ほど長谷川さんが、冨士山アネットの作品のつくり方として、台本を書いて稽古して捨てて…ということを仰っていましたが、その「捨てて」というのはどういう意味ですか?
長谷川: 「捨てる」というのは、そのままの意味ではなくて、最終的には台詞を無くしてしまう、ということです。台詞は、映像で流れたり、ナレーションであったりしますが、俳優から(の発話)はないです。ただ、台本には基づいてはいます。僕、海外などで言葉のわからない状況で舞台を観るというのが結構面白くて好きなんです。相手との関係性だけを読み取らないと意味がわからない。この人とこの人は、足の幅がこの距離だったから親密な関係なんだなとか、そういう身体で出されるヒントがすごく転がっていて、そういったものに興味を持ったのが、今のスタイルをやり始めた経緯です。稽古でわからなくなると台本を読んで、こういう関係性だったらこれぐらい離れていたほうがいいよね、とつくっていく。つまり、最初、ダンスの設計図の引き方がわからなかったんですね。演劇の設計図は台本だと思うんですけど、じゃあ、そこからつくれないかと。僕の強みは其処でもあると思ってます。なぜなら、僕の台本は世の中に出ないから。だから、わざとB級なことも書けるし、夢オチでもいい。ただそれをアウトプットするときに、最終的に今の形として出すことを意識して書けばよいと考えている。なので、すごく自由にやらせてもらってます。
Q.長谷川さんが、いわゆる「台本があって台詞を言う」演劇では表現できないと思ったきっかけ・動機は何ですか?
長谷川: フェスティバル/トーキョーの前身である東京国際芸術祭で、レバノンのアーティストであるラビア・ムルエさんがつくられた、内戦や実際の話を基にした作品を観たときに、ドラマや台本が果たしてこの現実に勝てるのかと判らなくなる時期があって…。一時期、そういうドキュメンタリーや、出演者の話からつくることもやってみました。あとは、演劇はどこまで台詞を削れるのかと思い、台詞なしで構成台本のような感じでつくったこともあります。そのとき、初めて台詞がなくなりました。ただ、そのときにはまだパントマイム的なことだったんです。でもパントマイムだったらマイムの方がやればいいと思って。じゃあ僕らは何ができるだろうと。今はダンサーも俳優も両方いますが、その当時は俳優ばかりでした。たまたま、プロレス好きの男性が集まっていて、だんだん危ない方向に行き始めて、本当にbreak a legしそうになりました。またそこからダンスの要素などの軌道修正が随時入り、今の形になっています。


(2012年6月4日 大阪市内にて)


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