AI・HALL共催公演として、燐光群が『推進派』を6月21日(火)〜23日(木)に上演します。 この公演に先駆けて、作・演出の坂手洋二さんに、作品についてお話を伺いました。


■執筆のモチーフ
 一年半前に徳之島に取材に行く機会があり、この島のそれから一年半の出来事を描きたいと強く思いました。 その島で何が起きたのか、クロニクルとして出来事を順に追って書くということも考えたんですけど、 回想や過去を描くのではなく、今、まさにこの現在を描かないといけないと思い、途中でスイッチをチェンジしました。 そう思わせたのは、今回の震災の影響も当然ありました。
 しかし、今、普天間基地代替施設移設問題がまた動き始めているということが非常に大きい。 沖縄の国頭村(くにがみそん)の安波(あは)地区に基地を持っていこうという案がでてきて、 普天間基地問題がまたも二転三転しています。そういったこともこの作品に組み込まないと意味が無いと思いました。  だから、あくまで現在形にこだわるかたちで創作しました。

 徳之島は、人口約2万7千人、外周約80kmのコンパクトな島。米軍がいなくて、人々には温かみや親しみがあって、 農業を中心に栄えている、豊かで平和な島です。 耕地面積が奄美諸島のなかで一番で、サトウキビの生産が安定したかたちで行われています。
 過疎問題はあるけれど、特殊出生率全国1〜3位を独占している子宝の島であり、長寿の島であり、闘牛でも有名な島です。
 そういった島の平穏が、普天間基地移設の問題でこの一年間でぐらぐら揺れている。そういった問題に晒されている島で、 いろんな人の話を聞きました。

■内容について
 作品自体はあくまでフィクションの物語です。「サチノ島(幸之島)」という架空の島で起きていることを描いています。
 島でIターンUターン希望者を受け入れる仕組みを、民間で始めた人がいるという設定で、 外から島にやってきて、そこに受け入れられて住むかどうか迷っている8名と、 それを取り巻く島の人たちのドラマが交錯して行くという劇です。
 ごく一部の<(基地)推進派>の人たちと、圧倒的な<反対派>の人たちが関わってゆく。 ほんの一握りの推進派の人に対して「あなたは何を考えているのか」と問い詰めてゆく。そういう人間のぶつかりあいのなかで、 見えてくることがこの劇の要めです。
 実際に、島で会った方々のことを参考にしながら、でもフィクションですから、 島についての魅力、意見の対立のなかで見えてくる真実が浮き彫りになってくるというお芝居です。
 徳之島独特の歌や言葉も出てきます。今回、関西から、はしぐちしんさんに出演いただいています。

■「推進派」と「反対派」
 誤解のないように言っておきますと、今回のモデルとなっている徳之島には<推進派>の人はほんとうにほぼいないんです。 99.99%が<反対派>です。そのなかで、正直に「自分は推進派だ」と言っている人を今回の主人公に設定しました。
 島の反対派の中心の人たちに「坂手さんが反対派であることはわかっているけど、でも<推進派>を主人公にしなくてもいいじゃないか」 と言われたりもしました。もちろん、そういった立場の人を主人公にする難しさや、 ましてゴシックで大きくタイトルにまでして芝居をすることの難しさも感じています。 結果的に推進派の宣伝をしているようにとられることは本意ではないからです。

 島内は反対派ばかりであるという前提のなかで、推進派の一部の人も島に対する愛情を持っていて変な濁りがないんです。 また面白いことに、推進派と名乗っている人に対して、反対派の人たちは「あの人は純粋でいい人ですよ〜」って言うんです。 ちゃんとした人だし、島の仲間たちの中にいるんだなと思いますし。でも、なぜか推進派だというジレンマがあります(笑)。
 推進派のひとは、島の未来を考えるに、 人口の減少に対する恐怖や島の経済振興のためには他の方法がないんではないかと絶望的に感じているんですね。 反対派がほとんどのなかで、島をどうやって栄えさせるのかと自分なりに考えてはいる。
 そういう人がいることも当たり前のように受け入れてつきあっていく、 一緒に暮らし生活していることのリアリティ。その面白さがこの島にはある。

■「メディア」としての劇
 今、米軍基地やダムや原子力発電など、既に計画が進んでしまっている大きな国家事業は、 それまでに相当なお金もつぎ込んできてしまったという意識も働いて、途中で何か支障があっても、 そう簡単に覆せず後戻りできないまま突き進んでしまうというパターンが繰り返されていて、非常に日本的だと思います。
 始めてしまった以上、途中でおかしいと思っても、たとえリスクがあってもやってしまおうということが、 全国どこでも行われている。ダムや原発や基地の問題は、結局、共通しているんだと思います。 ですから、今回は南の小さな<島>の話ではあるけど、それは結局<島国>であるこの国自体の問題でもあると感じました。
 日米間の従属的な関係の中でアメリカに依存しながら生き延びるしかないのでは、と不安になる人もいる。 そういった現実をリアルに感じながら、僕ら自身が自立していくための社会のあり方を模索するという劇ですね、今回は。

 演劇もひとつのメディアでありジャーナリズムであるとするなら、僕らが提出して一方通行でお見せして終わるのではなく、 観客の方にも当事者として立ち会っていただき、感じ、考えてもらい、 その返ってくる空気を僕らも演じながら感じ取って、さらに変わっていくという、 双方向でありライブであるメディアとしての特質が非常に生かされた劇になっています。

 徳之島の方も何人かご覧いただけたのですが、この一年半に島で起きた、大事だと思うことが舞台の上に全部出てきます。 それらの情報と関わりが全てまとまって、ひとつの場所で一挙に観ることは有り得ないわけですね。 それも画像や文字情報で見るのではなく、そこに立ち会って「どうするんだこれは」と考える。 まとめて見ると、こういうことが見えてくるという、劇の持っている迫力が非常にあると思いますし、 「立ち会う」という演劇の持っているシンプルなメディアとしての力があると思いますね。

 基地問題を避けられない人が実際にいて、そこでは、店の軒先や道の擦違いざまに、 政治的な話をすることが当たり前になっている状況があるわけです。 その当たり前のことをやっているのに、「ああ、これはだから社会派の劇だね」というのはちょっと違うのではないかと思う。
 自分たちの問題として、国家、政治や、アメリカのことをちゃんと語るというのはむしろ当たり前のことであって、 それができる場所としての
<劇>の持っている魅力があると思う。 でも、だからといって、堅苦しく情報量で勝負するものではなくて、人間の生きた言葉してそれが語られたとき、 そうしなければ見えない、生き生きとしたドラマが生まれてくると信じます。 他には例がない画期的な仕組みの劇になっているのは間違いないと思います。

(2011年6月10日 大阪市内にて)

【AI・HALL共催公演】
燐光群『推進派』
6/21(火)19:00、6/22(水)14:00/19:00、6/23(木)19:00