現代演劇レトロスペクティブ
8月30日(土)19時終演後、7月に現代演劇レトロスペクティヴで、『友達』を演出されたウォーリー木下さんをゲストにお迎えし、司会の岩崎正裕(アイホール・ディレクター)と演出の水沼健さんを交えてシアタートークを開催しました。日本の不条理劇の巨匠、安部公房と別役実の作品をそれぞれ演出された印象について語り合いました。
■不条理劇作家、別役実。

ウォーリー木下(以下、ウォーリー):今日『そよそよ族の叛乱』を観て、別役さんが『言葉への戦術』(烏書房・1972年刊)の中で、安部公房さんの『友達』を批判してる意味がすごくわかりました。不条理の捉え方の違いだと思うんですけど、安部公房作品は実は「不条理っぽい」ストレートプレイで、この作品は、かなり文字通りの“不条理”ですよね。

岩崎正裕(以下、岩崎):近代演劇の形が安部公房さんの作品にはまだ残っていて、それが揺れ動かないですよね。シチュエーションはカチッとあって、疑似家族が侵入してきて男が圧迫されていくというドラマですけど。

ウォーリー:『友達』より圧倒的に難しそうだなという印象でした。役者さんがどうやって現場で創っていたかに興味があります。“間”とか発話の仕方とか、水沼さんのスタイルでこの作品を演出することで成功してる部分が多いんだろうなと観ていて思いました。

水沼健(以下、水沼):『友達』と比べて、この作品は俳優のあり方に根拠が全くないんですよ。『友達』はまだあるじゃないですか。家族の方にも見出すことは出来ると思うんですよ。でも、探偵Xも女事務員も何故ここに居るのか、何故死体があるのかとか、それらの根拠が全くなくて。結局、この物語を抽出することがなかなか出来なくて、大変苦労しました(苦笑)

岩崎:でも、何かしら、手がかりがあったわけですよね?

水沼:いや…本当にないんですよ(笑)

ウォーリー:台本を読んだ段階で、その兆候は発見できるんじゃないですか?

水沼:いや、意外とね…わからなかった(場内爆笑)。もう少し手がかりがあるかなぁと思っていたけどね…無かった(笑)。最初の死体処理係の対話が面白いなと思って、材料としてこれがあったら、あとは何とかなるだろうと気軽に選んだんですよ(笑)。そうしたら、とんでもない作品で…。僕は細かい部分から創って繋ぎ合わせていくんですが、この作品に関しては、最初に死体が人形であるという指定とかイワシを食べるだとか、稽古で決めていきたい部分を予め決められていることが多くて、その要求されているリアリティのところをどうするかが決められなかったので、自分のいつもの手順が踏めなくて。死体も今の形になったモノが届いたのは今週ですから、それまでの稽古では全くよくわからないものを使ってやってたくらいです。

岩崎:戯曲の設定では人形? マネキン?

水沼:人形なんですけど、最初はある程度、役を取り換え可能な形にしてやろうと思っていたんです。ところが戯曲に登場するキャラクターのあり方が全く不確定なんで、それをそのまま取り換えると全然判らなくなってしまったので、役に対応する形で俳優を当ててやってみると、今度は人手が足りないということが判って(笑)

■劇作家・水沼健としてのアプローチ

岩崎:観客の皆さんは戯曲を読んでらっしゃらない方も多いと思うので、解説が必要だと思うんですけど、かなりテキストに手を入れられてるんですよね。実は登場人物も18人いるんですよね?

水沼:当初の予定では5人で全部やろうとしてたんですが、それは出来ない、足りないということが判明しまして、そこから男女で10人くらいの街の人々の台詞を音声で流す方法にしました。

岩崎:水沼さんは劇作家でもありますから、逆に街の人々を消し去ったことで、街の人たちの同調圧力みたいなものが見えてくるように考えられて、テキストレジーをしたと見受けられたんですけど?

水沼:それを具現化していいのかどうかがわからなくて。戯曲でも、結構、抽象的な捉え方をしていて、街の人たちが同調圧力を与えているのか与えてないのかが、はっきりと判らないんです。そこを具体化する手もあったんですけど、それほど劇的な効果や強度が生まれそうになかったのでやめました。音声にしたのは、ナレーションも含めてですけど、七〇年代初期に執筆されているので作品が前提にしている世界観や時代性が根強くて、そこが今日化、現在化がしづらいなと思ったので、とりあえず音声で記憶に刺激を与える形のメディアを使って、「古い作品を“テープ起こし”した」というコンセプトにしました。街も現在の街ではなくて、昭和40年代のテープに残っている音声みたいな形で再現しようとしました。

岩崎:別役さんは演出をなさらないからね。具体化の仕方というのを、どこまで本人が意識してらっしゃるかはわからないですね。

水沼:それはホントに僕も思うんです。全体のリズムが崩れるから、作・演出を兼ねている人間なら書かないぞっていう台詞が多いんですよ…。もう、ほんと、長い割に情報量がそんなにないぞと(爆笑)

岩崎:初めて別役さんとタッグを組んで演出したのは鈴木忠志さんでしょ。その鈴木さんが別役さんの習作戯曲を読んだエピソードをどこかで読んだんですけど、もうすでに十代の頃から「ソーセージにほくろがある、だからこれはほくろのある女のソーセージなんだ」という作風が完成されていたと。こんな理屈の戯曲には、別に、世界の情勢とか関係ないわけですよね。その頃から不可思議な世界を別役さんは観てらっしゃったのだろうから、実は「解釈は不可能」という部分はあるんじゃないでしょうか。

水沼:別役さんは若い時から大変成功されていて、作風もかなり早い段階から完成された人というイメージを僕も持っていました。でも、この作品はデビューから十年位の戯曲ですけど、ちょっと若いかな、という印象を受けますね。この台詞は要らないだろう、というところがあって…。

岩崎:例えば、水沼文体からすると、どういったところですか?

水沼:長い台詞の中に「そうなんですよ」と入ってくるんです。リズムを付けるために、一見、必要そうなんですけど発話すると全然要らないよ、というところがあって聞いていて気持ち悪い。もちろん、別役さんの文体は端正なので、その「街」に住む人間がコミュニケーションを恐れているとか、自分を守りたいという心理みたいなのが入っていると思うんですけど、それにしても、無くても何の影響もない一言がかなり挟まっていて、なんか間延びしてしまっているなと感じますね。

岩崎:それは、われわれが九〇年代の「現代口語演劇」を経験したからじゃないかな。

水沼:ああ、なるほど。

岩崎:だから、「そうなんですよ」という台詞は要らないという感覚をわれわれは持っているのかもしれないですね。

水沼:ただ、「冗長率」、つまり文章のなかの無駄な言葉の率で考えると、別役戯曲は「現代口語演劇」に近い感じがあります。八〇年代の鴻上尚史さんや野田秀樹さんのような情報集約型の台詞の次の時代に現代口語演劇は登場していますが、実は別役さんが七〇年代に、ある程度、モデルを示していたのではないでしょうか。それが形を変えて、九〇年代の現代口語というかたちに到着したという気がしました。

岩崎:日本の現代演劇史において、別役さんは特異な存在だと思うんです。現代演劇レトロスペクティヴのシアタートークに作家ご本人をお招きできない場合、その作家と一緒に活動をされていた方や有識者をお招きするのですが、別役さんの場合、僕の知る限りでは思い当たらないんですよね。文学座などいろんなところに作品を書き下ろしていらっしゃいますし、関西ではピッコロ劇団の代表も務めてらっしゃったけれど、別役さんとずっと二人三脚で演出してらっしゃった方がいないんです。ご自身で演出をされない分、この『そよそよ族の叛乱』は、別役さん自身が、実は台詞のスタイルや演劇論を模索されている、まさにその過中にあったのではないでしょうか。

■「街」の捉え方

ウォーリー:今回の上演では、「街の人々」は登場しないのですが、舞台美術によって、常に圧迫感と閉塞感を与えてられていますよね。だから、後半になるにつれて「街」という言葉が具体的なものではなく、何かの形容詞として面白く聞こえてきたのが興味深かったです。舞台美術が戯曲にマッチしていると思いました。

水沼:別役さんは具体的な舞台美術を排除するかたちでいつも作品を書かれているので、今回は高さで圧迫感を与える美術のみにしたいと思いました。このセットはビルの谷間のようにも見えますし、建物の中にも見える。内側にも外側にもなるのでいいかなと。

岩崎:「街」を捉えた時に別役さんも安部公房さんもそうなんだけど、善意みたいなもの、親切みたいなものが人を圧迫していくんだって言うことを書かれていますよね。


水沼:
でも、お二人の「街」の捉え方は全く違う気がするんですよ。安部公房さんはかなり具体的なものとして「街」を捉えている気がするんですけど、別役さんはかなり茫洋としたものとして捉えてるんじゃないかなと思います。あと、この作品に関しては「街」という言葉が、ちょっと無責任な使われ方をしているんじゃないかと思ったんですよね。ホントに「街」でいいのかよ、コレ? というくらい、「街」という言葉の奥行きがなくて、これはちょっと「街」という言葉を信頼して芝居を作ってしまうのは難しいなと。

岩崎:雰囲気ですよね、「街」というのは。例えば、誰かが何かを食べると誰かが飢え死にしてしまうというイメージは当時の劇作家で使っている人が多くて、寺山修司も『大山デブ子の犯罪』(1967年)で同じこと書いてるんですよね。と、いうことは、その時代の問題だったと捉えるのが普通だと思いますね。今日の作品は、表層を漂っている風合いがすごく現代的だなと思ったし、ウォーリーさんの演出もデザインにすごくこだわって作ったでしょ。シアタートークで来られた時に、大橋也寸さんが安部公房さんのエピソードで、「プラハの春」と結びつけられてイメージされたくないから、美術デザインに対して、ここはそうしたくないという発言をされてましたが、安部公房さんの中にそのイメージの意図があったっていうことだよね。

水沼:よく『友達』で言われるのは、日本社会に対してアメリカ文化が入ってくるっていう比喩で語られることが多いじゃないですか。もちろんそういう捉え方もあるし、安部公房さん自身がそういう意図で書かれたかどうかは知らないですけど、そうすると何となく作品自体が簡単になっちゃうなと。ウォーリー君の演出した『友達』は閉鎖的と言うか狭い空間に入ってくるというのを裏返していたから、すごく空間が広がって見えました。男も被害者というより加害者という態度だったから、そういう意味で、内臓を表にしたみたいな作品で面白い捉え方だなと思いましたね。

ウォーリー:ありがとうございます。

■俳優とのコミュニケーション

岩崎:『友達』の場合、コミュニケーションの取り方はもっと現代の若者的だったと思うんだけど、今日の『そよそよ族の叛乱』では、何か確信めいたものがありつつ、俳優があまり自分の感情とか感じたことに引き寄せない演技の方法を選択したんだなと思ったんだけど、稽古場では何を頼りにされて、あのような台詞の受け渡しになったんですか?

水沼:具体的な全体のプランとかアイデアはほぼ提示したことはないですね。表面的な指示しかしてないです。特にこの芝居だとそれ以上のことは出来ないなと思って。内面を繕うとすると、たぶん失敗するかな、と思いました。

岩崎:関係性では作れないですよね。どんどん変わるわけだから。

水沼:コミュニケーションを希求しているような会話も一つもなくて、自分の有り様を守るかのような閉鎖的な会話しかないんですよね。そこも別役さんの作品の特徴かなと思うんですけど。

ウォーリー:定点カメラでずっと見ているみたいでしたね。笑いが起こるか起こらないかは関係なく、なんかずっと変な人たちを覗いているみたいな。前半はその変な人たちのやりとりだけで、結構、笑えるんですけど、後半に向かうにつれて、この“変さ”がどうも僕の思っている“変さ”と違うと思い始めて、そこの齟齬をどうしようと思ってました。

岩崎:でも、俳優の立たせ方なんかは、最初、コントっぽいなと思ったし、別役さんの作品が「コント」でアプローチされることはあまりなかったから、新しい試みではないかと思いました。

■捕まえられそうで、捕まえられない

水沼:本当に今日は別役さんに観ていただきたかったですよね。残念です。

岩崎:別役さんが来たら、僕らは煙に巻かれるでしょうけどね。

ウォーリー:別役さんは普段から周りを煙に巻くような発言をされる方なんですか?

水沼:いや、僕は何回かしか会ってないけど、理路整然としていらっしゃる方です。

岩崎:でも、どんなエッセイを書いていてもはぐらかしますね、別役さんて。講演会で「劇作家というのは素敵な商売です」という切り出しで、一時間半喋ることが出来るということは、ユーモアがとてもおありなんだろうなと思います。 捕まえたと思ったら、はぐらかされるんだよね。それを楽しめばいいっていうだけで、たぶんこういうことを表しているんだ、と言い切っちゃうところからダメになってしまう気もしますね。今日のお客さんは、すごく頭の中を引っかき回されたと思います。

水沼:確かに。捕まえられそうなんだけど、捕まえられないという感覚の台詞なんですよね。

岩崎:だって、急にお母さんが「私がそよそよ族だ」って言い出すのって…。

ウォーリー:あれはメチャクチャ笑いましたけどね。言い方も面白いし(笑)

水沼:あの子、ダンサーなんですよ。ウォーリー君もダンサー使ってたよね。僕もダンサーと一緒に仕事したいなと思って、彼女を呼んだんですけど…。

ウォーリー:でも、直接的なダンスの要素は使わなかったんですね。
踊るのかなぁと思って見ていたんだけど、閉じ込められたままで(笑)

水沼:あれ、袋の中で踊ってるんですよ(笑)

岩崎:まあ、それもはぐらかしって感じですかね(笑)。こういったところで、本日は終了とさせていただければと思います。ありがとうございました。