現代演劇レトロスペクティブ

平成26年度 現代演劇レトロスペクティブ 演出者対談
【出席者】


『友達』演出:ウォーリー木下(sunday)×『そよそよ族の叛乱』演出:水沼健(壁ノ花団)
司会:岩崎正裕(AI・HALLディレクター)
■作品と出会ったきっかけ・選んだ理由。

岩崎:現代演劇レトロスペクティヴは今年で5回目となります。これまで、六〇年代や八〇年代の作品が登場しておりますが、今回は、切り口を今までと変えまして、日本の不条理演劇を開拓したお二人、安部公房と別役実の作品を取り上げることになりました。実は、最初、「不条理」というオーダーではなかったんですよね。「笑いについての」というオーダーで進めていくうちに「不条理」の2作になったという経緯がありました。その時に、ウォーリーさんが『友達』をやりたいというのがすごく意外性があって面白かったんですが、きっかけは何だったんですか?

ウォーリー:一昨年、一年間かけて作品を創る、いわゆる一般市民参加型企画で演出をした時に、毎週授業があるので、いろんな本を読んでみようと参加者の皆さんに好きな戯曲を持ってきてもらったんです。鴻上尚史さんや野田秀樹さん、ハロルド・ピンターとかいろいろ読んだんですが、その時に『友達』を持ってきた人がいて、最初数ページだけ読み合わせをしてみたら面白くて。それをそのまま一年後の発表会でやろうかという話もあったぐらいで。その時の印象が強く残っていたからです。

岩崎:水沼さんは別役実作品を若い頃からよく読んでらっしゃった?

水沼:若い頃は別役さんだけでなくあまり戯曲というものを読まなかったですね。演劇を知ろうという意欲が無くて(笑)。まあ、だいたい皆そうだと思うんですけど、新作ばっかりやってましたから。戯曲を読むようになったのはここ十数年くらいです。別役さんは中でも特に好きな作家ですね。文体とか雰囲気はずいぶん影響を受けたと思います。でも、別役さんの作品の中から一つ選ぶというのが難しくて、最初は「笑い」というオーダーだったので、「笑い」だったら例えば『受付』とかになるなと。

岩崎:最も初期と言われる頃の。

水沼:そうですね、代表作ですけど、それよりあんまり聞いたことない作品をやりたいなと思ってました。別役さんの作品って140~150作ぐらいあって、それを全部読んだわけでは決してないですけど、その中で、結果的に印象が薄かった戯曲をぼんやりと選びました。

■「不条理」の成立

岩崎:現代演劇において、不測の事態、いわゆる「不条理」が介入してくるのは必須になってる傾向がありますよね。「リアリズム」の文脈だけでは成立しえない状況というか。

ウォーリー:確かに今、不条理じゃない作品って、どんだけあんねんって感じですよね。むしろ少ないですよね。

水沼:ただそれが現代の問題なのかというのも怪しいなと思うのですよ。不条理的な状況ってのは今だけの話じゃなくて、ずっと続いているような気がするんですよね。戦後なんか特にそうで、新しい演劇が生まれた背景には、捉えきれない新しい状況をどう捉えるのかというところがあるんじゃないですかね。不条理劇が生まれる背景は常にあったんじゃないかと思いますけど。

岩崎:おそらく産業革命以降にそういう土壌はどんどん整いつつあったんじゃないかと思いますよね。そこに世界大戦を二回挟んで、ヨーロッパ全土が精神性を含めて荒廃している中から出てきたんだろうなと思いますけどね。安部公房さんって、そういう不条理的な部分で誰かに影響受けたりしてるんですかね? すごくオリジナルとして僕らが認識してるところがあるけど。

ウォーリー:カフカじゃないですかね。自分でも影響受けた、と言ってますし。『箱男』にしても『砂の女』にしても、今思えば、カフカ的だなと思いますし。

岩崎:『棒になった男』とかもカフカ的ですよね。水沼さんは以前、京都でイヨネスコをやってらしたけど。

水沼:まあ、「不条理」と言っても一括りにはできないのですが、イヨネスコは作風としては“足して”いく感じで、ベケットは引き算で“引いて”作っていく感じではないかと自分では思っているんですけど、別役さんってベケット的なところもあるし、イヨネスコ的なところもあると思っているんですが、御本人と直接お話しした時には「イヨネスコの方が好きなんだ」という風なことを聞いて、意外だなー、と思いましたね。

■お互いの作品の印象

岩崎:ウォーリーさんが最初に安部公房を認識したのはいつ?

ウォーリー:高校時代に『箱男』を読みました。でもその時は、有名な作家さんだから読んでおこうかなぐらいの感覚で。

水沼:僕は高校の時に有名な日本の作家を読もうという意欲は全くなかったんですけど、何故?

ウォーリー:僕、小説家になりたいって思ってたんですよ(笑)。こういう本を書いて生計を立てることに興味は持ってました。

水沼:じゃあ、一応、モデルとしては安部公房みたいな作家になりたかったと?

ウォーリー:いや、それはないですよ(笑)。ただ、昔の人なのに、すごく新しく感じるのは素晴らしいなと思ったことはあります。

岩崎:私が高校生の時に『棒になった男』が教科書に載りましたけどね。

水沼:それ、八〇年代ぐらいでしょ。古い印象の作家じゃなかったんじゃないの?

ウォーリー:でも、新刊がバリバリ本屋さんに並ぶ作家じゃなかったので、夏目漱石とかと変わらない印象ではありましたけど。

岩崎:ウォーリーさんは、別役さんは視野には無かったの?

ウォーリー:それもまた偶然なんですけど、去年一年間、戯曲を読む年にしてたんで、別役さんも読んだんですよ。でも、何か無理だったんですよね。『マッチ売りの少女』とか、戦争のこととかをちょっと別のフレーズに置き換えてる作品は。噛み砕いて言うと、読書体験として笑えなかったんです。今回、『そよそよ族の叛乱』は読もうと思いますけど。

水沼:結果、無理だったんだよね。『象』とか?

ウォーリー:あ、メッチャ好きなんですけど。

水沼:じゃあ、好きじゃん(笑)

ウォーリー:いや、ああいうの、例えば、謎の男が長い台詞とか喋り出すと、ちょっとダメなんですよ。

水沼:長い台詞がダメなんだね。

ウォーリー:長い台詞、基本、ダメですね(笑)

水沼:僕、長い台詞大好き。だから印象が違うんじゃないかな。

ウォーリー:なるべく短い会話で進む方が今は好きですね。

岩崎:水沼さんは? 安部公房の作品は読んでらっしゃると思うけど。

水沼:戯曲は『友達』しか読んでないです。小説はちょこちょこ読んでますけど。僕、そもそも最初に読んだ『友達』がそんなに面白いとは思わなかったです(笑)。2冊目に手を出そうという気にならなくて。

ウォーリー:お互いの作品をけなし合ってますけど(笑)

岩崎:『友達』の方がまだ近代戯曲寄りだよね、読み解きやすいというか。それが上演に当たっては触手が動かなかったということですかね。

■演出プランは?

岩崎:ウォーリーさんは実際に上演するにあたって、プランはどうですか?

ウォーリー:やればやるほどよくわかんなくなってきてはいるんですけど、変わりそうな気はするんです。やっぱり、男と家族の対立構造で話が進む戯曲なので、別役さんが批判している通り、限定されている世界が文学的すぎるというか、社会に対して広がりを持たない戯曲だなと思ってはいるので、対立構造じゃないものをなんとか見つけて観られるようにしたいなと思っています。その一つとして、男は家族の一員であるということを大前提にして進めています。

岩崎:状況設定としてはひとつの時間で進行していって、ずっと部屋の中じゃないですか。「現代演劇レトロスペクティヴ」では、テキスト自体を触らないというルールですけど。

ウォーリー:テキストとして増やすわけではないんですけど、長谷川寧(冨士山アネット)を主人公にして、身体表現みたいなものを入れようと思ったのはその一つで、男の妄想というか、男が叶わなかったことをシーンとして挿入するということだけやらしてもらいたいなと思ってます。まあ、それは唐突にサブリミナル効果のように、映画のコマの中にコカコーラのCM流すみたいにフラッシュバック的に差しはさむことでやれるかなと。チラシのヴィジュアルはそっち側でイメージしました。

岩崎:『そよそよ族の叛乱』は、バス停という設定と、電信柱が出てくるという設定がありましたよね。その辺はキチッと守りながら構成されるような形ですか?

水沼:まだそこまで考えてないです。ただ、僕のいつもやってる作品より、2.5倍ぐらいの分量があるんですよ。通常は70分ぐらいでやっていて、そのままで行くと3時間近くになるんですけど、そんなに長い作品にするつもりもないので、そのへんは解決したいなと思ってます。

岩崎:俳優を書いてあるイメージ通りの人物として出さないということになるんですかね?

水沼:そうですね。ただ、別役さんの作品で面白いのは、背景がよくわからない人たちにどうしても焦点が当たりやすいし、喋る内容とか喋ってる行為に焦点が当たりやすい、という気がしますよね。僕もそこは大切にしたいなと思うし、守りたいんですよ。その上で分量は半分ぐらいにしたいなと。

岩崎:役柄に対して一対一の対応というのはかなり崩れそうということですか。

水沼:そこもまだ計算つかないですね(笑)

ウォーリー:もうちょっと使える話、して下さいよ(笑)

水沼:まだ、稽古開始前だからね…(笑)。僕、だいたい現場に判った感じで入るということがないので…。やりながら見つけていくタイプなんで。

岩崎:要は稽古場で俳優が居て、そこから発想が生まれていくタイプの演出なんですね。ウォーリーさんは最近、劇作をあんまりされないですよね? その代わり、作品創る時にメモをいっぱい渡されるじゃないですか。あれはプランありきでやってるんですか?

ウォーリー:いや、僕も基本は稽古場でしかやらないように努力はしようとしてるんですけど、どうしても戯曲を使わない作品が最近多いので、昔はホントにゼロでやってたんですけど、スタッフや俳優からクレームが来たりするので(笑)、「なにをウォーリーは“完全裸”で来とんねん」と。お互いノーガードで稽古に来ても、ただの呑み会みたいになっちゃうので。そうなると、メモとかテキストって重要なんだなと思って、ババっと一行でもいいから作って持って行くという作業を10年以上しています。一時期は、何を作るかよりどう作るか、みたいな演劇の考え方が流行って、僕もそういうことをやってみたい時期もあったので、物語とか作品とか世の中の出来事とかそういうことではなくて、演劇って何だろうということを喋るところから演劇を作ることも面白いなと思ってやっていたことがありました。

岩崎:そのノーガードでやっている時は、一日どれくらい稽古してたの?

ウォーリー:3、4時間やりますよ。何か生まれないと、その日は帰れないみたいな。

■俳優との創作過程、解釈の共有について。

岩崎:俳優って、関係とか文脈で芝居を創ろうとするじゃないですか。別役さんの作品もそういう方向で作ろうと思うとかなり無理が出てくると思うんだけど、例えばイヨネスコ作ったときでも構わないんだけど、水沼さんはどういう切り口で俳優とコミュニケーション取りながら作っていくの?

水沼:コミュニケーションは、俳優から質問が来れば答えるくらいですね。

岩崎:意味からは入らないよね?

水沼:そうですね。でも、演劇って、なんか喋ってたら納得するところがあるというか、辻褄が合うというか、喋る、語る、騙す、そういう力を信じてますね。たぶん、俳優もそういう作り方の人たちなんだろうと思うし、「これ、どうなってんの?」というアプローチは無くて。

岩崎:当時の時代背景から説き起こして、この比喩は、このメタファーは、こうだからこうだという辻褄合わせはやらないということ?

水沼:自分にそういう能力はないので(笑)。あんまり悩んだことはないですね、そこの辻褄に関しては。

岩崎:ウォーリーさんも非言語ものをよく作りますが、どういうキーワードで創るんですか?

ウォーリー:うーん、やっぱり、基本はアイデアだけでいける方がいいよね、という方向で作ってます。

岩崎:でも、ああいう言語を扱わない領域の方が、言語じゃないと共有できないよね。

ウォーリー:そうですね、最近、その共有というところで悩んでるんですけど、俳優同士で「イメージを共有しよう」みたいなこと、よく言うじゃないですか。今回は安部公房の作品だから、もしくは不条理と言うジャンルだからかもしれないですが、そういうイメージの共有が実は足を引っ張ることがあるんだなと思う時があります。稽古中、試しに戯曲解釈とかしたんですよ。資料を読んだりとか、別役さんの『友達』批判の本(『言葉への戦術』)を読んだり、時代背景とか調べてもらって「皆、どう思う?」というのを二日間ぐらいやったんですけど、結果、いま立ち稽古をしていて、そういうのとは別なんだなと思うに至ったんですよね。それこそ喋ってみたら違うものが生まれてくるし。

岩崎:目的地を一緒にしちゃうと、ズレが楽しめないということかな。

ウォーリー:こういう戯曲って、結局、読み手と書き手にズレが生じたりすることの面白さがあると思うので、それを意識的に立体化させないと、やる意味がないのかなと思ったりするんです。だから最近、特に寧くんと“家族”の俳優たちとを別で打ち合わせするようにしたりして、寧くんにはこういうこと言っておいて、“家族チーム”には違うことを言うみたいな、ある程度、戦略的にやってます。

水沼:それはどうなんだろ、ちょっと問題があるような気がするけど(笑)。現場では共有した方が良いんじゃない、何が起きてるかとかさ(笑)

ウォーリー:まあ、確かに他の役者は「なんで寧くん、あんな芝居になってるんだろ?」という顔になってる時、ありますよ(笑)。あれは寧くんが自発的にやってるのか、ウォーリーの指示だろうかって(笑)

岩崎:それをお互いが面白がれればいいんだろうけどね。

水沼:僕も学生の時に戯曲分析みたいなのをやってましたけど、結局、解釈というのが固定化しちゃうから、それに縛られるという経験はしましたね。

岩崎:それ、作品は?

水沼:鴻上尚史さんとか北村想さんとか。

岩崎:鴻上さんと、想さんで分析をしましたか。

水沼:そういう流行のものをやってみたんですよ。鴻上さんとか、野田さんもそうですけど、よく知らないけど頭よさそうなコトバが出てくるから、それをネタに喧々諤々喋るのが好きじゃないですか、学生時代は。それがどう作品に活かされるのかなんて、関係ないんだな、ということは判りましたね。

岩崎:作品分析って、ヒエラルキー作るでしょ。よく調べて発言の多い人が、実際の物創りに入っても、一目置かれちゃうみたいな、よろしくない状況になるじゃない。特に日本社会で、フラットな議論ってなかなか成立しないのよね。

ウォーリー:でも、そういう時は、だいたい素朴な疑問から出る発言が面白い発見になりますよね。一所懸命、文脈を探して喋る人間と、そんなこと判らずにただポッと一つの発想で喋ったりすることは、どっちが上とか下とかないなーと思いますね。

岩崎:実際、今回出てらっしゃる河東けいさんは柔らかいでしょ、発想が。

ウォーリー:すごい柔らかいです。そういう意味で言うと、いろんな世代、いろんなジャンルの人たちに参加してもらってるのは良かったなあと思ってます。

岩崎:水沼さんはどうやって役者をチョイスしたの?

 

水沼:いつも出てもらっている三人と、近畿大学の卒業生2名に声をかけました。福谷圭祐は今「匿名劇壇」という劇団で作・演出としてやってますけど、俳優としてもおもしろくて、福井菜月は私の授業を受けていた学生ではないんですが、ダンサーなんで身体的な要素を彼女の方に期待してます。

岩崎:解釈とか分析しなくても作業がスムーズに行きそうな人たちを選んだ、と。

水沼:そうですね。ただ、内田淳子さんも直感の傾向が強い人なんで、そういう質問よく来ますよ。「なにコレ?」とか「わからんね」とか。だからそういう刺激をもらうことはあります。

ウォーリー:でも、判らなくても演劇って作れるのは凄いなと思いますね。台詞とか、スルーしちゃおうと思ったらスルーしたまま本番迎えられるじゃないですか。それを一つ一つ目くじら立ててチェックしていくことが、最近、いいのかどうかもわかんなくなってきたぐらいで。

岩崎:恐らく近代の戯曲なんかはね、分析をすることでイメージとか共有することも出来るんだろうけど、戦後に生まれた六〇年代以降の戯曲というのは、解釈分析じゃない部分があると思いますね。出会いですよね、その身体とか、演出家もそうだけどね。

水沼:俳優がいて劇場に立って灯りがあたって喋ってると、なんかどうでもいいというか、成立しちゃうところがあるじゃないですか。そこは演劇の、表現の核みたいなところじゃないかなと思いますけどね。

ウォーリー:ライブ性みたいなことですよね。

水沼:辻褄が合致してというのは文学的な側面じゃないですか。そういうところがあんまり強く出すぎると演劇の中心的な可能性であるライブ性というのと相克するようなことがありますよね。むしろ、辻褄合ってない方が面白いんじゃないかなと思いますけどね。

2014年 5月25日 於:大阪市内