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ハイバイ 『ヒッキー・ソトニデテミターノ』
岩井秀人 インタビュー

撮影:平岩享

 

 

 

 

AI・HALL共催公演として、ハイバイが2018年3月8日(木)~10日(土)に『ヒッキー・ソトニデテミターノ』の上演を行います。

本作品の脚本・演出で主人公の登美男役を演じる岩井秀人さんに、作品についてお話いただきました。

 

公演詳細はこちら

 

 

 

 

 


<前作『ヒッキー・カンクーントルネード』について>

 

『ヒッキー・ソトニデテミターノ(以下ソトニ)』は、2012年にPARCO劇場のプロデュースで初演しました。これは2003年に僕が最初に書いた台本『ヒッキー・カンクーントルネード(以下カンクーン)』の続編に当たる作品です。

僕は16~20歳まで引きこもっていたのですが、その間、プロレスラーになりたくて、そのギャップの大きさがただ苦しかったんですが、そこに喜劇性を感じて『カンクーン』を書きました。上演してお客さんと共有した時に、笑われたけどすごく面白くて、それが僕の中でいろんなもののスタートになっています。

 

 

<本作『ヒッキー・ソトニデテミターノ』で描きたかったこと>

 

 
初演時2012年PARCO劇場 ©曳野若菜

10回以上再演している『カンクーン』についてお客さんと話をしている中で、僕は作品の終わりで主人公の登美男が外に出られたか出られなかったかわからないように作りましたが、「登美男くんが外に出られてよかったですね」という感想をもらったり、「出られたか出られなかったかが判然としないと作品の感想を持てない」と言われたりして、多くの人が無意識レベルで「家から外に出なくちゃいけない」と思っていること自体に、疑問をもってほしいと感じるようになりました。

僕自身、家から出たことがよかったかどうかはわからなくて、自分の半分くらいを部屋においてきたというか、自分の半分くらいを社会的に“殺して”外に出たという感覚があります。だからお客さんとのやり取りの中で、「引きこもりの人に何か言いたいことないですか」と言われた時に、僕は誰よりも、現在進行形で引きこもっている人に対して、ものを言っちゃいけない立場だと思ってます。

特に、自分のような「たまたま外に出て、引きこもっていたことをちょっと面白おかしくネタにして食っているやつ」が、深刻な理由で現在も引きこもっている人に対して「出た方がいいよ」というようなことを言うのは、ほんとに“殺人”に近いことだと感じています。引きこもっている人の切実さを知らないで「出た方がいい」とか「出られてよかった」というものを見せるとか、「出られないとダメだ」という文脈を押し付けることがなによりもキツいと思っているので、本作を書くまでの10年間に、そこについてもう少し考えられるものを作りたいと思っていました。

この作品は登美男が家から出た後の話を描いていますが、別のパターンの「引きこもり」を登場させて、家から出ない理由とか、家から出ないで何をしているのかということを描きたかったし、「自分を半分殺して外に出た」という感覚についても描きたかったんです。

 

――引きこもり自立支援団体での取材、「高齢引きこもり」について

 

僕が20歳を越えても家を出なかったら、臨床心理士だった母は引きこもり支援センターの寮に僕を入れることも考えていました。そこは、実在の施設で、職業訓練やアルバイトをしながら、「引きこもり」が自立していくのを手助けします。

もし、その施設にお世話になっていたら自分はどういう生き方をしていたんだろうという感覚があるので、施設内での生活やレンタルお兄さん、お姉さんがどういう仕事をしているのかを取材しました。

取材している時、施設の茶話会のようなものに参加した際、60歳くらいのおじさんがいて話しかけると、「息子が20歳から引きこもっていて、かれこれ20年になるんですよね」という話をされ、それを聞いた時、「引きこもり」がちょっと新たなステージに差し掛かっているぞと思いました。全国的にも引きこもりの人の高齢化が進んでいるようで、2012年の初演時には「高齢ひきこもり」に関してはノータッチでしたが、自分もその可能性は多いにあったわけだし、これからだってわからないわけなので、それについては書きたいと感じました。

 

 

<再演にあたって台本の書き換えは?>

 

韓国公演より2015年DOOSAN ART CENTER

例えば「引きこもり」という言葉が登場した時、最初は当事者以外の人たちが、ネット上とかで、引きこもりの人が見たら絶望しちゃうようなひどいことを山ほど言うんですよね。新しい言葉を使って、ただ遊ぶ。だけどそこから段々と「引きこもり」という言葉を使う人が増えて、「ヒッキー」とか「自宅警備」っていう愛称がついたりとかして、多角的にカテゴリー分けとかしながら活用形を見つけていく。

そして最近だと「去年、引きこもってた」ぐらいのことを話す人って身の回りにいる、みたいなレベルになっていて、それは言葉自体がもつ不思議な作用でもあるけど、日本ではそうやって新しい生き方に名前をつけて、最初は乱雑にその生き方を扱うんだけど、乱雑ながら、その生き方の実体を知っていく。そこから、自分たちの人生にも「引きこもり」の要素があることに気付いていく。と同時に、「引きこもり」当事者にも居場所を認めていく。そういった新たな生き方とか感覚が根付くまでのスピードが異常に早いと思います。

 

 

<現在「引きこもり」の方に作品をPRするとしたら、どういった言葉を?>

 

現在「引きこもり」の方には一番見てほしいですね。もちろんすごくキツい現実の可能性も書いてあるけど、「そこまで行った時に、出るという判断をしてこそ出られる」みたいな感覚が僕個人としてはあります。だから見た感想を聞きたいし、見に来てほしいと思いますね。でも見に来てほしいけど、一番見に来づらい人たちですものね。難しいですね。

 

演劇って、自分では気づいていなかったり、自分の中にあったんだけど言語化されてなかった違和感っていうのを、明らかにして共有するような効果がある気がします。

ある女性の方で、旦那さんの言葉のDVがものすごくひどくて、友達に相談したら、「聞いてみたいから、録音してきてくんない?」って言われたんですって。そして奥さんは、恐る恐るだけどちゃんと録音に成功したわけです。それで、友達といっしょに再生して聞いてみたら、笑えちゃってしょうがなかったみたいなんですよ。「もう、ちょーバカみたいなこと言ってる」と。これは多分、とても閉鎖的なところで起きていた理不尽なことに、「社会」として友達が挟まったことで、喜劇に転換された、みたいなことが起きているんだと思います。こういうことが演劇が持ってる機能と同じなんじゃないかと思います。その人個人が持っている過去のトラウマや引っかかっているけどどうにもならない経験に、別の視点や社会が挟まっただけで、その見え方がガラーンって回転するみたいなものがあって、根本的な問題はもしかしたら解決しようがないのかもしれないけれど、その人にとっての出来事の意味合いを変える、みたいなことを、僕はすごく演劇に期待しているんだと思いますね。

(2018年1月 大阪市内にて)