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坂手洋二(燐光群)インタビュー

アイホールでは平成27年12月11日(金)~13日(日)に、共催公演として、燐光群『お召し列車』を上演します。劇団主宰で、劇作家・演出家の坂手洋二さんにお話を伺いました。


 ■作品創作のきっかけ

 僕が、ハンセン病について作品の中で取り上げたのは、オーストラリアのカウラという町で実際に起きた日本人捕虜脱走事件【※1】を題材にした『カウラの班長会議』(平成25年初演)が初めてです。そのなかで、病気のために隔離され、脱走に参加できなかった兵士を描きました。

 そのモデルとなった元捕虜の立花誠一郎さんが、現在、岡山県瀬戸内市の長島にある国立ハンセン病療養所「邑久(おく)光明園」にいらっしゃいます。実は『カウラの班長会議』の上演の際、ハンセン病に関する問題はデリケートなので、現地に赴き説明する機会をつくったんです。そのときに立花さんと仲良くなり、カウラの捕虜収容所でひとりだけ隔離されていたこと、自分だけ脱走のことを知らされず事件に非常に驚いたことなど、貴重な話をたくさん聞くことができました。

 僕の実家が瀬戸内市にあり、長島と地理的に非常に近いのですが、療養所の情報が広くは知られていなかったこともあり、恥ずかしながらその存在を知らずにいました。この出会いを機に、「邑久光明園」に何度か通うようになり、そこで語り部の皆さんに出会い、お話を聞くなかで「お召し列車」という言葉を知りました。この“言葉”に非常に引っ掛かりを感じたことが、今作をつくる最初のきっかけになっています。

 

 【※1】日本人捕虜脱走事件…第二次世界大戦時の1944年8月5日、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラで起こった日本兵捕虜脱走事件。捕虜収容所の脱走事件としては、史上最多の人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)と見られ、カウラ事件とも呼ばれる。

 

■「お召し列車」とは?

燐光群『お召し列車』 撮影○加藤孝
撮影:加藤孝

 「お召し列車」とは、そもそもは天皇を乗せるための特別列車のことですが、昭和初期からハンセン病患者を全国13か所ある国立療養所に集めるために運行した列車の“隠語”として既に使われていたそうです。

 長島島内には「邑久光明園」と「長島愛生園」という二つのハンセン病療養所があるのですが、昭和30年、「長島愛生園」のなかに、公立邑久高校の分校として「新良田(にいらだ)教室」が開校しました。普通科四年制で、全国で唯一の罹患者のための公立高校だったこともあり、青森から沖縄まで各地の療養所から就学年齢の人が集まってきたそうです。

 当時はハンセン病に対する隔離政策が継続されていた頃だったので、学生たちは、国鉄車輌のいちばん後ろに一両だけくっつけられた患者を隔離するための専用車輌に乗って長島にやってきたそうで、その列車の “あだ名”も<お召し列車>と呼ばれたそうです。つまり、改めて復活した“隠語”だったわけです。

 

■車輌という密室を舞台に

 今回は列車ということで、車輌を舞台にしました。

 新たな東京オリンピックに向け、海外からの来場者への「おもてなし」として特別運行する「お召し列車」の企画コンペティションが行われています。代理店二社が競合し、一社は昔ながらの「御料車」、つまりロイヤルトレインを復活させる案を、もう一社は現在も豪華列車ツアーとして観光用で運行しているE655系のハイグレード車輌を走らせるという案を出しています。選考のために二案の車輌を連結した列車を走らせ、選考委員がその列車に乗り込んで走行中の車内で選考会議をしているという設定です。

 その対立する二つの車輌に挟まれて、からっぽで何にもない車輌がある。これが、昭和30年代にハンセン病患者の学生を乗せる<お召し列車>の車輌というわけです。貨物用の車輌にBOX席を少し置いただけで、半分以上が土間で何もなく、「この車輌は何をする場所かわからない」と両サイドの車輌と比べて言われてしまうほど、天皇が乗る「お召し列車」や、「おもてなし」のための特別列車のイメージとかけ離れています。

 その車輌に乗車しているのが、渡辺美佐子さん演じる元患者の女性です。やがて、議論のなかで、罹患者の学生を運んだ<お召し列車>を残しておきたいという人物が現れます。最初は相手にしなかった選考委員たちでしたが、話し合いが進んでいくうちに考えざるを得ない状況になっていき、三つの案が競合することになっていきます。

 大勢で「ああだ、こうだ」と紛糾している場面と、美佐子さんがメインの少人数で濃密な場面と、二つの話が中心になって進むという構造になっています。また、密室劇であることや結論に向け議論する様子などは、『十二人の怒れる男』【※2】の構造を取り入れて、流れもほぼ一緒にしています。

 設定としては三つの異なる車輌で話が進むのですが、セット転換は考えていません。シンプルな舞台美術で、敢えて三つの車輌とも同じセットにして、それぞれの場面をみせていこうと思っています。ポリティカル・フィクションだけど、現実に有り得ることを描きたいと思っていますし、演劇界初(?)の、変な試みもいっぱい起こす予定です。

 

 【※2】 十二人の怒れる男』…レジナルド・ローズ原作。1954年製作のアメリカのテレビドラマで、その後、映画化、舞台化もされる。全陪審員一致で有罪が確定的だった少年の裁判で、ひとりの男が無罪を主張したことを発端に、最終的に全員一致で少年の無罪が決まる。陪審員が評決に達するまでの議論を一室で描いた密室劇の金字塔。

 

■語り部のバイタリティに触発

 今作を書くにあたり、ハンセン病患者の語り部の方々に聞き取りをしました。90歳前後の方が多いのですが、皆さんカクシャクとされていて、当時に何があったのかをとても分かりやすく話してくださいます。

 彼・彼女たちに聞いた隔離政策の現実は、想像以上に酷いものでした。療養所に入るときには、名前を変えること、死後解剖への承諾書にサインをすることが義務づけられたそうです。だから入所者の多くは本名ではありません。親戚付き合いも絶っている方がほとんどです。ハンセン病は遺伝性があると思われていたため、患者は断種も強制されていたそうです。子どもを産まさないため、妊娠しても堕胎させられたり、患者同士が夫婦になるときは結婚前日に男性側がパイプカットされたり、熊本の療養所では女性も避妊手術をさせられていたそうです。

 でも、本当は遺伝性はないんです。実際、フィリピンのクリオン島という、ハンセン病患者を隔離するための島では、祖父母が患者だったという子どもたちが何事もなく元気に暮らしている。現在二万人近くが住んでいるその島では、元患者百人ぐらいが、健常者と一緒に区別なく生活しているんです。つまり、子どもを産んでも問題がなかったことが実証されているんです。

 また、現在「多摩全生園」で暮らしている「新良田教室」第一期生の森本美代治さんは、彼が本名で『証言・日本人の過ち ハンセン病を生きて』という本を出版したとき、親戚に「お前がいたことは隠していたのに、どうして出てきたんだ」と言われたそうです。「新良田教室」の同窓会長も務めていらっしゃるのですが、昭和62年の閉校までに述べ307人が卒業し、うち3分の2が社会復帰されているにも関わらず、半分以上は現在の所在を確認できないそうです。それは、昔の同級生たちが自分の近状を知らせないからで、この病気は周りだけでなく、患者本人も隠したいという気持ちも強いことを知りました。

稽古の様子 撮影:加藤孝

 実際にお話を聞けば聞くほど、僕自身はとても苦しくなり、考えただけで気持ちが落ち着かない。でも、語り部のみなさんは苦しい経験のはずなのに、どこか楽しそうに話してくださる。

 例えば、「新良田教室」の第一期生は平均年齢が20歳以上で、生徒同士の恋愛が盛んだったから「恋愛学校」と揶揄された話や、「男女別の棟だったので、夜になったら男性は女性の部屋にこっそり忍び込んだ」という当時のエピソードなど、現実にあったユーモアあふれる話をたくさん聞きました。

 語り部のみなさんに出会い、人間のもっている生きるエネルギーとバイタリティに改めて驚かされました。だから『お召し列車』は、列車内の話なのに、どうしても「新良田教室」の話題がたくさん出てきてしまうんです。ユーモアたっぷりの彼ら自身を描きたくて(笑)。そこで、今回、語り部と同世代である美佐子さんに元患者の役をやってもらうことにしました。

 

■重い題材を軽やかに描く試み

 渡辺美佐子さんが演じる元患者の女性は、健常者と結婚をしていた時期があります。ある日、亡くなった大叔父の遺言で女性の存在を知ったという、若い娘が訪ねてくるところから物語は始まります。女性は親戚と絶縁されていたのですが、その娘が自分の孫姪にあたることを知ります。娘は、大叔父の結婚相手がハンセン病患者だったと聞いて、病気に関心を持ち、フィリピンのクリオン島にワークキャンプにいったりしてハンセン病について調べていました。また、中山マリ演じる元患者の同窓生や、鴨川てんし演じる昔の知人といった同世代も絡み、話が展開していきます。

『お召し列車』舞台写真

 燐光群に在籍する俳優は、60歳オーバーの俳優から、23歳の宗像祥子まで、年齢幅があります。客演陣も、渡辺美佐子さんをはじめ、円城寺あやさん、大島葉子さん、大月ひろ美さん、岡本舞さん、さとうこうじくん、東谷英人くんなど、バラエティ豊かでにぎやかな布陣になりました。普通の芝居とは違う、世代を縦断した強い力でもって、ハンセン病という重い話を、なるべく軽々とバカバカしくやりたいと思っています。語り部のみなさんのバイタリティやユーモアを充分に活かしていきたい。ポリティカル・フィクションだけど、なるべくコメディタッチにしたいと思っています。まあ、僕がそんなこと言っても信じてもらえないでしょうけど(笑)。

 

■タブーからの脱却を

 ハンセン病は、1941年(昭和16年)にアメリカでプロミンという特効薬が発見され、治る病気になりました。感染力のとても弱い菌なので、うつらないことも既に実証されています。

 でも日本は、そのことを明らかにしないまま隔離政策が続けられました。「らい予防法」が出来て以降(昭和6年)は、隔離政策がますます強くなり、昭和35年ごろには患者のほとんどが強制隔離されたわけです。発症したときの特徴として、外見が変形していく場合があり、偏見をもたれやすく、様々な差別が広がっていきました。重症になっていく方もいらっしゃるのですが、僕が出会った語り部は、指が曲がっている人、まゆげのない女性、顔の一部分が変形している人もいましたが、比較的外見は変わっていません。でも、口に出すこと事態がタブーのような、隠された状態になってしまったんです。

 それが、平成8年(1996年)に法律が廃止され、平成13年(2001年)に熊本で、「らい予防法は必要ないのに強化されて世間に出ていく権利を奪われ損害をうけた」と元患者百人近くが原告となり、「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」を起こし、勝訴したんです。国は患者の主張を全て受け入れ、賠償金を支払っただけでなく、その権利は、原告以外の患者にもあると波及していきました。この判決をきっかけにハンセン病は隠されるものではなくなり、患者のみなさんが表立って話せるようになってきたんです。その熊本判決を出した裁判長が杉山さんという人で、実はうちの劇団員の杉山英之の父親だったと知り、ちょっと不思議な縁を感じました。

 そして、患者や回復者のみなさんが語ってくれる自身の話は、不謹慎かもしれないけれど、僕らにとってはとても興味深いことが多いんです。

 今回、語り部の方々に体験談を聞いて、改めて日本は隠す文化であることに気づかされました。隠したあとに何か残るかというと、体制側のもの、保守的なものなんですよね。そして、隠れているものを見せることに対して、どうしてもタブー意識が働くわけです。だからこそ、演劇のなかで、ハンセン病についてきちんと取り上げたいし、取り上げる以上、その責任は重大だと思っています。

 

 ■今、伝えておくために

 ハンセン病は、今も苦しんでいる患者がいる、現実にある病気です。でも、日本国内では新しい患者は生まれておらず、いつか根絶して無くなる病気です。現在、全国に約二千人いるといわれている患者も平均年齢が85歳。あと二十年したらハンセン病患者もいなくなるんです。子孫もほとんど残っていません。それは、沖縄を取材して、戦争の現実や歴史が伝えられないままになっている現状と同じだと感じました。

 戦争の記憶が捻じ曲げられ、表面的なことだけが伝えられつつあることと、ハンセン病の様々な事実が隠されてきたことが、どうしても重なって見えてしまうんです。そして、それらの記憶そのものが無くなり忘れ去られていく感覚が僕にはとてもつらい。だから、みなさんがご存命のうちに、この病気のことを聞いておかないといけない、書いていかなきゃいけないと強く思っています。

(平成27年11月 大阪市内にて)


アイホール共催公演
燐光群『お召し列車』
作・演出/坂手洋二
平成27年
12月11日(金)19:00
12月12日(土)14:00/19:00
12月13日(日)14:00
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