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岩崎正裕(劇団太陽族)×ごまのはえ(ニットキャップシアター) 対談

アイホールでは提携公演として、8月31日(土)~9月2日(月)にニットキャップシアター第39回公演『チェーホフも鳥の名前』を、9月13日(金)~15日(日)に劇団太陽族『辻の詩、風を待つ』を上演します。今回は作・演出をつとめるごまのはえさん(ニットキャップシアター)と岩崎正裕さん(劇団太陽族)に対談いただきました。


■サハリン島について

岩崎正裕(以下、岩崎):ごまさんが今回扱うのは、「サハリン島」ですね。サハリン島は樺太島とも呼ばれてて、よく両併記されますよね。

ごまのはえ(以下、ごま):そうですね。明治維新によって日本が近代化されて以降、日本とロシアの間で何度も領有権が変わっています。今もあの島は日本領であると主張する人もいます。それもあって呼称に気をつかっているのでしょう。大雑把に言うと日露戦争後に日本の領土となり、そこから第二次大戦で日本が負けるまでは日本領「樺太」でした。ただ島には、昔から北方先住民族と言われる方々が住んでました。樺太アイヌが有名ですが、他にも今はニヴフと呼ばれるギリヤーク、ウィルタなどがいました。この人たちは狩猟民族ですが、昔から交易もしていて、日本の松前藩と中国の清朝の間を、樺太アイヌやニヴフたちがつないでいました。樺太は日本列島の北の玄関口のような位置づけでもありました。

岩崎:出島のような貿易をするための施設があったんですね。

ごま:建物があったかはわかりませんが、交易のための市場はあったでしょうね。サハリンとユーラシア大陸の間にある間宮海峡は冬になると歩いて渡れるそうです。だから、大陸との行き来も盛んでした。

岩崎:チェーホフがサハリン島に渡ったのはいつですか。

ごま:1890年7月から3か月くらい滞在しました。30歳です。『かもめ』や『三人姉妹』など代表的な戯曲を書く前ですね。

岩崎:彼がまとめたルポルタージュ『サハリン島』は、彼が医学者として流刑地であるこの島を調べに行くという内容でしたよね。

ごま:『サハリン島』は国勢調査のような内容です。サハリンの囚人たちがどういう暮らしをしていたか、男性・女性がそれぞれ何人か、その中で夫婦関係・内縁関係の者は何組かなどを記しています。

岩崎:流刑地として女性も男性も流され、そこで婚姻を結ぶということですか。

ごま:そのパターンもありますが、囚人には懲役囚と移住囚と二種類あるんです。懲役囚は刑務所に入れられて炭鉱とかで働かされる。移住囚というのは、サハリンに土地を与えられ耕して住めと言われるんです。

岩崎:いわゆる「島流し」ですね。

ごま:すでに家族を持っていた移住囚の中には一緒に移り住むということも多かったようです。

岩崎:なるほど、そういうことを調査していたんだ。そういえば島から帰って来た時のチェーホフの「世界は素晴らしいけど、素晴らしくないものが一つだけある。それは僕たちです」という言葉はよく引用されてますよね。

ごま:サハリンで彼は一万枚の調査票を作って熱心に記録してます。私はチェーホフが、少なくとも島に来た当初は本気で社会改良をしようと思っていたように感じます。

岩崎:しかもその時、彼は既に肺結核を患っているんですよね。でも、チェーホフの戯曲を読んでも、どこかに弱点を持っている人たちばかりで、世の中を良くしたいという叫びは聞こえてこないように思います。けれど、そのエピソードを聞くと意外と熱い人だったのかもしれないですね。

 

■『チェーホフも鳥の名前』について

岩崎:ではなぜ『サハリン島』で舞台を作ろうと思ったのですか。

ごま:アイホールで上演した『イタミ・ノート』や『さよなら家族』をきっかけに、「街の記憶」を切り口にした仕事が増えています。舞鶴、岩手県西和賀町、京都府、岸和田市など色々な街で作品をつくってきました。樺太は今はもう日本ではありませんが、人々の記憶が堆積したところで、「街の記憶」という観点からはとても魅力的なところです。今回も『さよなら家族』と同じように、樺太の写真をたくさん使う予定です。

アイホールがつくる「伊丹の物語プロジェクト」『さよなら家族』(2017)/撮影:堀川高志

岩崎:チェーホフ本人は劇中に出てくるんですか。

ごま:出てきます。千田訓子さんに演じていただきます。男性だとどうしても物真似になりそうなので、性別を反転させてしまった方がいいなと思ったんです。

岩崎:物語の中で、チェーホフはどんな役割を果たすのですか。

ごま:『三人姉妹』にヴェルシーニンの「未来はもっと素晴らしいものになるでしょう」というセリフがあります。チェーホフ本人も登場しますが、このセリフが劇中に何度か登場します。時代時代のサハリンの現実とこのセリフがもつ理想を求める思いが、各時代でぶつかるような構成です。

岩崎:『三人姉妹』では「100年経っても人間は元のまんまだ」ということもトゥーゼンバフが言いますよね。彼の戯曲の登場人物は悲観的な人物と、堂々と理想を語る人物が出てくる両義的な作品が多いですね。

ごま:この島は、ドタバタとした喜劇的な出来事や悲劇的なこともたくさん起きるので、それらとチェーホフの台詞とが何か響き合えばと思っています。

岩崎:そして、宮沢賢治もサハリン島を訪れるんですよね。

ごま:はい。賢治は1923年8月にやってきます。日露戦争が終わり、サハリンが日本の領土になって17,8年後くらいです。賢治にとっては妹のトシ子さんが亡くなられた翌年です。訪れた理由は、彼が勤めていた農学校の卒業生の就職を斡旋しに行くためですが、費用は自腹でした。岩手、青森、北海道、樺太と何度も汽車を乗り換えてやってきます。

岩崎:『銀河鉄道の夜』も舞台は岩手だとよく思われますが、実は北海道への汽車旅行をしているときに着想を得たのだと言われてますよね。賢治は誰が演じますか。

ごま:それも千田さんです。一幕でチェーホフ、二幕で賢治が訪れます。

岩崎:私も30代の頃、チェーホフと賢治がサハリン島で出会うという二人芝居を書きたいと考えたことがありましたが、実際には彼らが訪れた時期が20年ほど違うので断念しました。だから、サハリンを舞台にすると2人を出したくなるというのは分かります。二部構成だということですが、上演時間はどれくらいですか。

ごま:休憩を入れて、3時間くらいですね。書いていたらいつのまにか長くなっていました。途中までは、「サハリン」「チェーホフ」「宮沢賢治」というモチーフだったのですが、日本とロシアに翻弄される先住民の人たちや、第二次世界大戦後にサハリンに残された朝鮮人についても書きたくなったんです。戦後、多くの日本人は樺太から本土へ帰ることができましたが、彼らは様々な政治的な事情によってなかなか帰国できなかった。やはりここまで描かないといけないなと思いました。

岩崎:大河歴史ドラマですね。

ごま:今回大変なのがニヴフ語です。北海道にいるニヴフ語の先生に訳してもらいました。劇団員の高原さんがニヴフの娘役を演じるんですが、見事に発音してくれています。朝鮮語も出てくるので、スクリーンに字幕も出そうと思っています。

岩崎:言語が入り乱れるんですね。チェーホフは日本語ですか。

ごま:はい。本当はロシア語にしたいんですけど。さすがにそこまで行くと観客もわけがわからなくなりますから。でも口調は翻訳語っぽくしています。

岩崎:チェーホフの台詞って、翻訳者の神西清さんの訳で頭に入っていますよね。でも本当は少し解釈が違うのではと思っています。例えば神西さんの訳では『かもめ』のポリーナが「どんどん時が過ぎ去ってしまう」って言うんですけど、堀江新二さんの訳を見ると「どんどん年だけとっていく」となっていて、そっちの方が意味としては合っているのではと思います。最近のチェーホフ作品は、英語訳からの重訳が流行っていますが、その方が雰囲気がカラッとするみたいです。だからよく知られている日本語訳の独特のウェット感は神西さんならではのものかもしれません。私は格調高くて好きですけど。

ごま:僕も大好きですね。

岩崎:ニットさんの公演は、舞踊や音楽もよく取り入れられてますが、今回はありますか?

ごま:舞踊はありませんが、音楽はパーカッションと歌を入れます。

 

■渡鹿野島と売春について

ごま:岩崎さんも今回、島を舞台にしていると聞きましたが。

岩崎:三重県の的矢湾内にある渡鹿野島(わたかのじま)です。ここは、 江戸時代から売春の歴史があった島です。

ごま:的矢カキが有名ですよね。

岩崎:そうそう。小さい島で、対岸にある渡船場から船に乗ってたった3分で着いてしまいます。あそこは「風待ちの港」と呼ばれていて、帆船の時代、嵐が起きたら船を休め、風が吹かなければ良い風を待つというように、漁をする人や運搬をする人たちの停泊場所になっていました。停泊が続くと食べ物や栄養が不足するので、島の女性が野菜を売りに行くんです。女性が船に上がると、漁師の破れた服を見て「繕いましょうか」と言う。したがって服を脱ぐとそのような雰囲気になり、漁師から「一晩どう?」と誘う。と、こういう流れで売春が行われていました。だから、売春婦のことを「菜売り」と言っていたんです。菜売りの夫たちは大抵が漁師で、彼らが漁に出ている間、女性たちには収入がないので売春を始めたというのが発端です。明治になっても延々とそれが続くんですが、なぜ全国的に有名になったかというと、太平洋戦争末期、人間魚雷「回天」とか潜水艦とかを作って、それらを渡鹿野島に隠そうということになったんです。そこで入江の工事のために三重県の海軍予科練生が動員された。でも島に宿舎はないので、彼らはみんな島民の家に民泊をしました。そこで売春婦と出会った。その後、戦争が終わって予科練生は全国方々に散りますよね。すると彼らが島の実情を各地で話し広まったというのが通説となっています。

ごま:予科練生って何歳くらいですか。

岩崎:18,9歳くらいですね。だから戦後も懐かしんで島を再び訪れる人も多かったようです。それで常連ができると、お金になるということで、四国から出て来た人たちが定住して売春業を始め、そこに反社会勢力も絡んでバブル期まで大きい仕事にしていきました。でも1991年に暴力団対策法ができたので、今はもうぱったりと売春はなくなりました。今年、5月にも島に行ってきましたが、全然見る影もありません。あと驚くのが、小さな島なのに宿舎・アパートはめちゃくちゃ多いことです。

劇団太陽族『Sumako』(2018)より

ごま:女の人が住んでいたんですか。

岩崎:売春をおおっぴらにできないから「恋愛」だということにして男の人をアパートに引き入れてそういうことをしていたんです。そういう面白い島なので、今回の舞台の時代設定をどこにしようかと考えた時にエピソードがいっぱいありすぎて迷いました。例えば、泳いで対岸まで逃げた少女がいるとか、某県警が慰安旅行で来たりとか(笑)。時々警察が摘発にも来るんですが、担当していた警部が女将にたらしこまれて結婚をし置屋の経営者になるというエピソードもあります。なんだか可愛い話でしょ。

ごま:そうですね(笑)。

岩崎:高木瑞穂さんという人が『売春島』というルポルタージュに書いていますが、女性たちが島から逃げだせない構造になっているんです。例えば、「人前に出るにはこの着物が必要だから買っておく」とか「賄いも付ける」と言われ、お金を出してくれる。でも実は立て替えているだけだから、それがウン十万の借金となり、返すまで島から出られない状態になるんです。また、夜は船が出ないんですよ。最終が17時~18時くらいで、翌朝8時くらいまで船の運航はパタッと止まります。これは売春島だったころの名残だなと思いました。

ごま:むっちゃ怖いですね。

岩崎:私も最終便に乗って一目散に帰りました。でも、今はすごく整備されて、海水浴場があったり大きいホテルもいっぱい建っていて、志摩スペイン村で遊んだ家族が泊まりに来るくらい、ものすごく浄化されています。

 

■『辻の詩、風を待つ』について

岩崎:でも、売春のことだけではホンが書けないと思っていました。それで、島以外のことも調べているうちに、ある新聞記事に巡り合ったんです。それが、広島出身で挿絵や絵本をたくさん手掛けている四國五郎という画家についてでした。この人は戦後、シベリアに抑留されていて、帰国後は故郷が原爆で無茶苦茶になっていて、そのため、俄然反戦に燃えたようです。そんな彼と出会ったのが同じく広島出身の詩人、峠三吉という人でした。あの有名な「にんげんをかえせ ちちをかえせ ははをかえせ」という詩を書いた人ですね。その後、朝鮮戦争が起こり、当時のアメリカ大統領は、朝鮮戦争でも原爆を使うとほのめかしたんです。それを聞いた四國と峠は共に立ち上がり、「辻詩」という活動を始めました。二人の絵と詩を組み合わせ、主に原爆に反対する内容のポスターを、街角の塀に貼って、その前で辻説法をするという活動です。ただ、当時はまだGHQの管理下に置かれていたので、警察官が止めにやってきたら、ポスターをべりっと剥がし、警察を撒いて逃げるというのを繰り返していたそうです。当時のポスターが8枚だけ現存しており、大阪大学総合学術博物館で展示会をしていたので見に行きました。これがたいそう気合の入った面白いもので、渡鹿野島とつながるなと思ったんです。構想としては、1952年に警察の手を逃れて、辻詩に関わった人たちが島に上陸する。そこで売春婦に出会った彼らは、「君たちはこのようなことをやっていていいのか。これからの日本のことを考えろ」と説教するのですが、売春婦たちには全くその意識がない。このような話から現在の日本を“うつせる”のではと思っています。

ごま:「現在の日本をうつす」とはどういうことですか。

岩崎:SNS上の議論のように映るのではと考えています。今の日本ではSNS上で、ある一人が語ったことについて「それは違う」と大勢が叩いたり、現政権を賛美しない人を韓国人認定したりということが起こってますよね。この芝居でも、共産党員である四國たちと売春婦たちが思想的に対立し、押し問答になる。その状況を通して、島の物語と現代の日本の状況を二重写しに出来ないかなと思っています。そして、彼らを通して日本の未来はどうなるかということを、語り合わせたいと思っています。

ごま:当時、島で売春している女の人たちは、どういう人なんでしょうか。

岩崎:1952年には、女衒に騙されてという人もいたと思いますが、貧しい地域から売られてきた女性や、戦争未亡人だけど恩給を受け取れていないというように、売春をするしか道がなかった人が多かったのではと思います。1952年というピンポイントな時代設定にしたのには理由があります。峠は1951年に共産党の大会のため東京に行き、大喀血をして静岡の病院まで運び込まれたんです。それまで彼は日記をずっとつけているんですが、なぜか静岡から広島に帰るまでの日記が破り捨てられているんです。その期間に渡鹿野島に行っていたのではないかと想定してみました。

ごま:確かに行ってるかもしれないですよね。峠さんと四國さんが島についてからはどんな出来事を考えてますか?

岩崎:それは今考え中です(笑)。少なくとも左派の辻詩が上陸したことと、島全体で売春をやっているということで、GHQ占領下の警察もその島には注目しているはずですから、誰が誰を密告するかみたいな話も書きたいです。今回は、劇団の女性たちがみんな40歳を超えているので、若い売春婦たちの悲惨さを描くために伊丹の高校演劇出身者の山本礼華さんと井上多真美さんに出てもらうことにしました。二人ともまだ20歳です。他にも京都の劇団「笑の内閣」所属の髭だるマンくんにも出てもらいます。

 

■島を描くことについて

岩崎:島という設定は舞台に向いてるなと思います。演劇の舞台って動かしてはならない空間性があるから。だから、広島で「ヒロシマ」のドラマは書けませんが、渡鹿野島の中でならヒロシマやシベリア抑留のことを語っても大丈夫なのではと思っています。ごまさんも、サハリン島から見えてくるのは、当時の先住民や世界情勢についてですよね。島の中だからこそ、島以外のことが語れると思うんです。

ごま:僕は今まで島についてのお話は書いたことがありません。船を見送る気持ちとか、海の向こうに対する気持ちとかが一切ないんです。

岩崎:それは、やっぱり枚方生まれだからですか。海がないですよね。

ごま:海や船に対しての郷愁みたいな、そういうものに重ね合わせる情緒がないんです。でも、渡鹿野島の話を聞いていたら、閉じ込められるような怖さは感じました。

岩崎:あと、確かに島という設定はドラマとしてちょっとずるいよね。だから港の場面は書かないぞと思います。海に出てしまったらちょっと哀愁漂いすぎるから。

 

■戦後を描くことについて

岩崎:サハリンは、戦場になったんですか。

ごま:第二次世界大戦末期の1945年8月8日~9日にかけてソ連が参戦し、まず満州を攻め、その2日後くらいにサハリンに侵入します。

岩崎:島に日本の守備隊はいたんですか。

ごま:日ソ中立条約があったので、前線という意識は薄かったようです。さらに樺太の場合は終戦後の8月15日以降も戦争が続きます。とくに樺太南西部の真岡町(現ホルムスク)ではソ連軍によってたくさんの人が殺されました。

岩崎:明らかに政治的にこの島を領土にしてしまおうという意識が働いていたんですね。

ごま:ソ連はサハリンだけでなくできれば北海道も、と思っていたのではないでしょうか。

岩崎:サハリンで戦闘があったことは、少なくとも沖縄戦ほどは語られてないですよね。

ごま:1945年に真岡の郵便局に勤めていた電話交換手たちの悲劇は今も有名です。『樺太1945年夏 氷雪の門』(1974年)という映画にもなりましたし、稚内にはサハリン島の戦闘で犠牲になった人たちに向けた「氷雪の門」という慰霊碑もあります。

岩崎:高校演劇で観た覚えがあります。樺太版『ひめゆりの塔』ですよね。でも、演劇でサハリンとか先住民とか真っ向から扱った作品はないですよね。

ごま:そうですね。現在のように右翼も左翼もあまり色がなくなってきたからこそやりたいと思ったのかもしれません。

岩崎:いいんじゃないですか。チェーホフ先生が国勢調査的に調べたことからの発案ですから。むしろ私のように峠三吉を扱うことの方がセンセーショナルと思われるかもしれません。

ごま:今はあまり峠さんの詩は聞かないですよね。

岩崎:原爆のことも含めて蓋をしていっているような、原発の問題ともつながってるからかもしれません。「放射能はこんなものだよ」ということを国民に知らせたくない誰かがいるんでしょう。

ごま:太陽族さんのタイトルは何ですか。

岩崎:『辻の詩、風を待つ』です。

ごま:いいですね。

岩崎:ニットキャップシアターさんのタイトルは?

ごま:『チェーホフも鳥の名前』です。

岩崎:「チェーホフ」って本当に鳥の名前なんですか。

ごま:違います。サハリンに「チェーホフ」という名前の街があるんです。日本領土時代は野田町と呼ばれていたんですが、戦後になって「チェーホフ」という名前になったんです。それでだんだんと自分の中で「街」が「鳥」に変わって行って…。島に鳥が渡ってくるようにチェーホフも島に渡って来たみたいなイメージかもしれません。

岩崎:いいじゃないですか。お互い、海を越えていきましょう。

 

(2019年7月 アイホールにて)


【提携公演】
ニットキャップシアター第39回公演『チェーホフも鳥の名前』
作・演出/ごまのはえ
令和元年
8月31日(土)13:00/18:00
9月1日(日)13:00/18:00
9月2日(月)14:00
詳細はコチラ

【提携公演】
劇団太陽族『辻の詩、風を待つ』
作・演出/岩崎正裕
令和元年
9月13日(金) 19:30
9月14日(土) 15:30
9月15日(日) 11:30/15:30
詳細はコチラ

オフィスコットーネ 綿貫凜インタビュー


アイホールでは、2019年5月24日~27日に、オフィスコットーネプロデュース 大竹野正典没後10年記念公演 第3弾として、改訂版『埒もなく汚れなく』『山の声』の連続上演を行います。当館ディレクターの岩崎正裕が、コットーネプロデューサーの綿貫凜さんにお話を伺いました。


■劇作家・大竹野正典との出会い

岩崎:綿貫さんはオフィスコットーネのプロデューサーとして、たくさんの大竹野正典さんの戯曲を上演されてきました。大竹野さんの活動の場は主に関西で、東京ではあまり活動されていらっしゃらなかったと記憶しています。どういう出会いがあって、こうした取り組みをされているのでしょうか?
綿貫:私が初めて大竹野さんの戯曲と出会ったのは2012年に、二人芝居をするために台本を探していた時期です。なかなか面白いホンに出会えてなくて、ふと、知人が二人芝居をやっていたことを思い出して連絡したんです。それが『山の声』だった。根掘り葉掘り聞いてすぐに台本を送ってもらって、電車の中で最後まで読みました。そうしたら、すごく面白くて、「これやろう」と即決しました。こんな面白い作家がいるんだと驚きました。すでに故人で戯曲集があると聞いたので、最初は70歳ぐらいのおじいさんだと思っていました(笑)。そのあと、『大竹野正典劇集成Ⅰ』をインターネットで買い、全部読んだんです。どれも面白くて、これは続けてやりたいと思いました。コットーネで大竹野作品を最初に上演したのが『山の声』で、30人ぐらいのスペースで、関西弁ができなかったので標準語でやらせてもらいました。
岩崎:それ以降、東京における大竹野正典の再評価が高まっているのが現在ですよね。
綿貫:ただ、2012年から数年は誰も振り向いてくれなかったです。「くじら企画」(大竹野正典主宰)は、東京ではまったく公演をやってらっしゃらなくて、大竹野さんのことを知っている人は誰もいなかった。2014年に上演した『海のホタル』の評判が良く、劇評家や新聞社の人がたくさん来てくれて、「面白いけど、この人は誰なの?」とやっと興味をもってもらえました。そして、大竹野正典という劇作家がいて、若くして死んだけど面白いねという感じになっていきました。
岩崎:大竹野さんは関西でも“いぶし銀”の光り方でした。彼は建築現場でコンクリートの技師をされていて、私が工事現場で旗振りのアルバイトをしていた時期にお会いしているんです。「よぉっ!」とか、「今日、コンクリート打つの?」とか言って。同世代でお互い意識はしていたけど、ご一緒する機会はありませんでした。だから、彼の死がすごく衝撃でした。それからこんなに時間が経ち、大竹野さんの作品が東京で脚光を浴びていることに、今、とても羨望のまなざしで眺めております。
綿貫:東京に出てきた関西の人に「大竹野さんを知ってますか?」と聞くと、「知らない」とか「名前を聞いたことはあるけど作品は観たことがない」という人が多い。こんなに面白いものを書いているのになぜみんな知らないのだろう、どうやったらこんな才能が埋もれたままになるのかと気になったのがスタートです。

 

■改訂版『埒もなく汚れなく』で描く大竹野像

岩崎:今回は、大竹野さんの人間関係に焦点を当てつつ、人生を描いていくのですか?
綿貫:作・演出の瀬戸山美咲さん(ミナモザ)は、名もない人物を取材を通じて描くことを得意にされている作家です。2016年の初演のときに、大竹野正典さんという面白い作家がいるので、その人のことを取材して書いてほしいと依頼しました。それで、「くじら企画」の面々、奥さんの小寿枝さんや娘さんなどに話を聞きました。初演版では、大竹野さんが奥さんと出会い結婚し『山の声』を書いて亡くなるところまでを描いたのですが、私も瀬戸山さんも大竹野さんには直接会ったことがありません。だから、私は主に作品からイメージして、瀬戸山さんは奥さんに取材をしたことで、旦那でありダメな人であり作家として才能のある人という、“奥さんの目線からみた大竹野像”が描かれました。今回の改訂版ではその6割ほどを残し、他はカットして新しいエピソードを挿入します。実は、『山の声』を書きあげる前の45歳ごろと、そのもっと前の35歳ぐらいのときにホンが書けなくなっている。今回、スランプの時期を新たに挿入することで、作家が書けなくなるとはどういうことなのかを分析しながら、大竹野さん像に迫っていくことにしました。大竹野さんは演劇を仕事にしていないわけで、そのなかで「次はどういうのを書くの?」というみんなからの期待や、前より面白いものを書かなくちゃいけないという重圧に耐えられなくなったのではないかと仮説を立てています。今回、改めて取材をして、亡くなって10年経ち、みんなの中で美化されてきている、だんだん美しい記憶にすり替わってきている部分も多いと感じました。素晴らしいだけじゃない、つらい部分もあるんだということを描きたい。
岩崎:関西では、大竹野さんに実際に会った人が多いと思います。近いところにいた人は、自分の記憶をたどりながら見てしまうと思います。東京だと虚構化できていたことが、関西では、観客側も頭を整理しないと観ることができないかもしれないですね。逆に、今の20代といった大竹野さんのことを知らない人たちは、新しい作家と出会う体験をするわけですね。

 

■「表現」と「食べていくこと」と「矛盾」と

綿貫:タイトルの「埒もなく」は、私が大竹野さんのエッセイのなかで一番好きな「埒の無いこと」(『劇集成Ⅱ』所収)にある一節、「芝居は埒の無い発明である」からいただきました。東京で演劇をしていると、演劇を仕事にしてお金に変えていくということにガツガツしちゃうんですよね。私自身も仕事をしていくなかで、自分がやっていることをたまに見失うことがあるんです。でも、この文章を読んだときに、ああ、こういう考え方でいいんだと救われるんです。
岩崎:大竹野さんは「売れる」ということを考えてなかったと思います。「なんで芝居って一年前に劇場を押さえないといけないんだろう、これをやりたいと思ったら二週間前に押さえられる劇場は無いのか」みたいなことをおっしゃっていて、芝居の即時性にすごく拘っていらした感覚があります。観客動員については考えていたけど、収支トントンぐらいで俺たちの表現はいいんだと思っていたように感じます。関西にはそういう人が意外と多いんです。昔、宮沢賢治とかが考えていた「農民芸術」の運動がありますよね。農業をやりながら、わたしたちは新しい表現・芸術活動をするんだという考え方。同じような立脚点の人が、地域にはいると思います。そういった考え方を大竹野さんを通じて東京の人たちが触れるのはいい機会かもしれないです。
綿貫:東京で生まれて育っている私からするとすごく稀有な感じがします。公演をやってお金をいただかないと生きていけないし、この公演は無料でいいですとは言えない。矛盾ですよね。お金にガツガツするなということと、食べていかなきゃいけないということ。そういう意味では、大竹野さんが描く犯罪者は、生きることにすごく矛盾を抱えて、結果、罪を犯します。大竹野さんは、そうした人間の生きていく矛盾と常に闘っていたんじゃないかと思うんです。
岩崎:そして寄り添うという方法もとっていらっしゃった。昔の関西の小劇場の現場って、劇場に荒くれ者がいっぱい集まって、喧嘩がよく起こったんです。それを率先して止めていたのが大竹野さん。あの人は拳を握りしめなかった。「暴力では何も解決しないですよ」と止めに入ったのが大竹野さんだった。だから、非暴力の人だったと思います。
綿貫:片や、これはよく作家が言うのですが、自分は演劇をしていなかったら犯罪者になっていたかもと。大竹野さんのエピソードのひとつで、昔、電車の中でタバコを吸っていた若者を注意して駅でボコボコにしたことがあって、そのときの記憶がないと聞きました。
岩崎:共存していたんでしょうね。
綿貫:そして、その矛盾をホンに投影していたのだと思います。彼の作品はその世界観、まなざしが優しいですよね。こんなに深いところで人間に対する観察眼を持つ作家はいないと思います。
岩崎:大竹野さんがご存命で、綿貫さんとお会いになっていたら、今、新作上演の可能性だってあるわけですよね。
綿貫:出会っていたら、やっぱり新作はお願いしていたと思います。『埒もなく汚れなく』には東京から時空を超えて大竹野さんに会いにくる東京のプロデューサーも登場します (笑)。でも、依頼しても大竹野さんは書かないって言ったと思うな。そして、それでも口説き落とすために何年も大阪に通う気がします、私。

 

■『山の声』のこと

岩崎:今回、『山の声』も初演の俳優で同時上演されますね。
綿貫:『山の声』は大竹野さんの遺作です。ただ、この作品のモデルになった加藤文太郎さんと大竹野さんの生き様がすごくリンクするんです。もともと大竹野さんは彼のことを知らなかったんですが、編集者の小堀純さんに「加藤文太郎って知ってるか? お前と似てるよ」と薦められて知ることになります。彼も働きながら登山をしていましたし、大竹野さんと通じるところがあって、このホンを書いたんじゃないかなと思うんです。
岩崎:出演は、戎屋海老さんと遊劇体の村尾オサムさんですよね。大竹野さんは売れる気満々の役者はあまりお好きじゃなかったと記憶しています。「犬の事ム所」や「くじら企画」を観に行くと、なんて潔い人たちが出ているんだろう、カッコいいなと思った。
綿貫:カッコいいんですけど、それだけじゃなかった気もします。その部分を今回の改訂で新たに描きたいと思っています。特に35才頃に書けなくなって家を出るというエピソードも盛り込んでいます。そのあと、『海のホタル』『サヨナフ』『夜、ナク、鳥』といった事件ネタを続けざまに書くのですが、やっぱり、事件物も厳しくなっていく。それは、犯罪者がなぜそんなことをするのかを理解できないまま事件を書き続けることが、純粋な大竹野さんには苦しかったのではないでしょうか。それで山に行くんです。山登りをしていると、何も考えなくていいし、登山自体が死の恐怖と常に隣り合わせですよね。獣の気配を感じたり、足を滑らしたら転がり落ちてしまうかもしれないという恐怖を感じたり。書けなくなった時期にそういう感覚を体験することで、今までとは違う創作意欲が湧いて、『山の声』を書いたんじゃないかと思います。『山の声』の後に、実は次の構想もあったそうなので、もし生きていたら、どんな作品を書いていたのかと思うとすごく残念ですし、山が好きで海で死んだって…ほんと伝説ですよ。
岩崎:いや、大竹野さんは山が好きで山で死んじゃダメな気がします。僕からしたら、ある日突然、ひょっこりいなくなった感じがするんです。
綿貫:そういう危なっかしい人だったとも奥さんから聞きました。熱中するとそれに向かってどこまでも突っ走っていっちゃうからと心配していたそうです。

 

■大竹野正典没後10年企画とこれから

綿貫:二年前に奥さんに「没後10年企画をやりましょう。東京では私がやるから、大阪でもやりましょう」と声をかけたところから始まりました。コットーネでは単独の企画として、第1弾に『山の声』、第2弾に『夜が摑む』、第3弾が今回の改訂版『埒もなく汚れなく』と『山の声』オリジナル版の連続上演。そして第4弾では次世代に大竹野さんの作品を渡していく企画を考えています。
岩崎:大竹野さんへの並々ならぬ熱量はまだまだ感じます。
綿貫:『山の声』はずっと続けていくつもりです。普遍的な話なので、翻訳もして、海外にも持っていきたいです。だから次の目標は、『山の声』を持って世界に出るぞという感じですね。また、この『埒もなく汚れなく』は、私たちが考える大竹野さん像であってフィクションですが、お金優先の世知辛い今の世の中で、こういう稀有な人がいたことを演劇作品にさせてもらいました。芸術をお金に換算しないという、この純粋な生き方と生き様を見ていただきたい。そして、生きていくとはどういうことなのか、芸術をやりながら食べていくとはどういうことなのかを、もう一度考える機会になればと思います。
岩崎:若い作家のなかには、どうしたら書けますかと安直に聞き過ぎる人もいますが、この作品を観て、苦しんでみようと言いたくなりますね。
綿貫:大竹野さんは戯曲賞にも本当に興味がなかった。OMS戯曲賞やテアトロ・イン・キャビン戯曲賞も奥さんが黙って応募したらしく、「なんでそんなことするんや」と言われて、「賞金が欲しいんや。生活の足しや!」と喧嘩したと聞きました。でも、奥さんは彼の才能を信じていて、女優だけでなく制作もされて支えていた。夫婦であって演劇の同志でもあった。『埒もなく…』を立ち上げるとき、奥さんに「大竹野さんを芝居にしたいんですけどいいですか」って電話したんです。「別に構いませんけど…芝居なんかになりますかねぇ」とおっしゃったことを覚えています。なります。しました。だからこそ、この作品は、演劇をやっている人も、そうじゃない人も、そして今、演劇をやめてしまった人にも、是非みていただきたいと思っています。

2019年4月 大阪市内


オフィスコットーネプロデュース
大竹野正典没後10年記念公演 第3弾
改訂版『埒もなく汚れなく』『山の声』
2019年5月24日(金)~27日(月)
公演詳細

2019年度次世代応援企画break a leg 植松厚太郎(立ツ鳥会議)×竹田モモコ(ばぶれるりぐる)インタビュー


アイホールでは今年度も、共催事業として「次世代応援企画break a leg」を開催いたします。アイホールディレクターの岩崎正裕と、参加いただく「立ツ鳥会議」の植松厚太郎さん、「ばぶれるりぐる」の竹田モモコさんにお話いただきました。


 

■企画趣旨について

岩崎:「次世代応援企画break a leg」は平成24年度から継続している事業です。アイホールのひとつの柱として、若手支援に注力するという主旨のもと、参加団体を全国公募し、毎年、新しい団体に登場いただいています。今年度もbaghdad caféの泉寛介さんと選考しまして、「立ツ鳥会議」と「ばぶれるりぐる」に登場いただくことになりました。もっと経験の浅い劇団やユニットに登場いただくことも多いのですが、今回は、演劇界においても充分経験を積まれている二団体になりました。
「立ツ鳥会議」は、植松さんが第24回OMS戯曲賞の佳作を受賞された『午前3時59分』の戯曲を読み、構成の面白さと緻密さを評価しました。映像も拝見し演劇的成果も高いと判断しました。今回は新作で登場されます。「ばぶれるりぐる」も戯曲を読み非常に感心しました。シチュエーションと面白い台詞運びで書かれているのですが、現代演劇としてもちゃんと地に足がついている。笑いだけに特化するのではなく、ある地域のコミュニティがとても緻密に書かれているのが興味深かったです。

 

 

★立ツ鳥会議『夕夕方暮れる』

■立ツ鳥会議について

植松:立ツ鳥会議は、私、植松厚太郎と小林弘直の二人が共同主宰の演劇ユニットで2010年に結成しました。私が脚本・演出を、小林がプロデュースを担っています。私たちは、東京大学と東京女子大学の学生で構成されている学生劇団「綺畸」の出身で、大学の卒業公演を自分たちでやるためにこのユニットを立ち上げました。「立ツ鳥会議」の名前は、卒業公演らしい名前がいいということから、あえて、跡を濁してやろう、記憶に残してやろうという意味でつけました。卒業後は、私が大阪に移住したりそれぞれの生活もあったりで演劇を続けられない状況でしたが、やっぱりなんとかしてやりたいねとなり、5年後の2015年に再始動し、今年で丸4年を迎えます。現在のメンバーは5人で、30代前後の社会人が中心です。東京のメンバーが多いので、大阪在住の私が週末に東京に通い、稽古をするという非常に強引なかたちで活動しています。作風は現代を舞台にした会話劇です。丁寧に積み重ねた会話と豊かな物語を通じて、現代の実感の奥底にある感情を掬い上げる作品をつくることを目指しています。毎回、トリッキーな演劇的仕掛けを入れているのも特徴です。出演者は公演ごとに、プロの俳優や社会人、学生といったバラエティに富んだ面々をお呼びし、そのなかでいかにクオリティの高い作品をつくるかを模索しています。今回は東京・兵庫の二都市公演で、東京公演は「CoRich舞台芸術まつり!」の最終審査対象に残っており、兵庫公演はアイホールのbreak a leg参加と、立ツ鳥会議としてはいつになくチャレンジングな公演になっています。

 

■『夕夕方暮れる』について

植松:新作『夕夕方暮れる(ゆうゆうがたくれる)』は、現代の若者10人で織りなす群像劇です。友人関係や夫婦関係、たまたま出会った二人といったミニマムな組み合わせからスタートして、最終的にはそれぞれが複雑に絡み合ったり絡み合わなかったりしながら、「現代における人と人との関係性」に焦点を当てていく作品です。今回は、東京の都心から若干離れた郊外にある小さな公園を舞台に、夏のある1週間、月~金曜日の平日5日間の夕方が舞台上で同時に進行するという構造にチャレンジします。時間が止まらないスリリングさに加えて、5つの時間を同時に進行させることで、出来事が、あるときは時間が戻る形で展開したり、あるときは不思議な重なり方をしたりします。こうした構造に物語を落とし込むことで、現代における群像をユーモラスかつシニカルに描き出したいと思っています。今回、「演劇でしか成立させられない“物語”とは何か」に着眼し創作をスタートしました。近年では、複数の場面やシーンが同時に進行する手法は、珍しいものではありません。でも、ここまで重ねるパターンはあまり無いと思っています。

『午前3時59分』より

少し話がそれますが、今の時代、なぜあえて「演劇」という表現方法をとるのかは、演劇にたずさわる人は誰しも考えていると思います。演劇には生モノの力があると思いますが、他には何があるだろうかと常に考えており、今回は「演劇ならではの物語」を目指そうと思い立ちました。物語のあらすじと演劇的手法が不可分なかたちで強固に結びついた、演劇以外では表現できない物語という意味です。今はメディアミックスの時代ですが、「誰が何をしてどうなった」という「物語」や「ストーリー」の部分は、相性の良し悪しこそあれ、基本的には別のメディアへの置き換えが可能です。近年、演劇の独自性を目指すときに、「物語」を捨てるとか、「ストーリー」を見限る選択をするパターンが多いのはそのためかもしれません。でも、私はまだ物語やフィクションを信じています。だからこそ、「物語」や「ストーリー」という枠組みのなかで、演劇ならではの価値を見いだしたいと思っています。
今回の最終的な目標は、同時進行という構造を使わなければ表現できない物語を組み上げて、演劇以外では見ることができない人間模様を立ち上げることです。ただ、わかりづらい作品にするつもりはありません。筋が追えないほど会話を重ねたりはしないです。単純に、見立ての新鮮さを楽しんでいただきたいですし、立ツ鳥会議は今までもエンターテインメント性を大切にしてきましたので、演劇を見慣れた人から初めて観る人まで、そのどちらにも通用する作品を目指しています。今を生きる人間を描こうとした結果、シーンによっては割と馬鹿馬鹿しかったりするので、いろんな人に気軽に足を運んでいただければと思います。また、今回は、立ツ鳥会議としては過去最大の10人という出演者です。キャリアを積まれた俳優さんにも参加いただいていますので、クオリティの高いものをお見せできると思っています。
岩崎:作劇においては、きわどい場面構成だけど、安心して読める、観られるという感覚があります。ドラマを捨てていないという植松さんのお言葉に、なるほどと思いました。

 

 

★ばぶれるりぐる『ほたえる人ら』

■ばぶれるりぐると幡多(はた)弁

田:私の出身は、高知県土佐清水市です。幡多(はた)郡という、高知県の最西端、九州寄りの地域です。18才のときに大阪に出てきて、2007年に「売込隊ビーム」に入団しました。10年ほど東京弁や関西弁でお芝居をしてきたのですが、訛りがひどく、ぬけなくて、非常に苦労しました。去年、自分の観たい芝居を自分で創り出したいと思い、戯曲を書くことにしました。そのときに、自分が得意な言語でお芝居を書きたいと思い、生まれ育った地域の方言である<幡多弁(はたべん)>を使おうと思いました。劇団名の「ばぶれるりぐる」は私の造語です。「ばぶれる」は「だだをこねて暴れる」、「りぐる」は「こだわる」という幡多弁で、「だだをこねて暴れながらこだわってつくっていく」という意味の劇団名にしました。幡多弁は高知の方言ですが、坂本龍馬が使う「~じゃきに」みたいないわゆる土佐弁とは少し違います。幡多弁、土佐弁ともに特徴的なのは標準語には無い「完了形」という状態を表現できることです。例えば、母親が子どもに「宿題終わった?」と聞いて子どもが「終わった。」と答える場合、この「終わった。」は過去形です。でも幡多弁だと「宿題終わっちょうが?」と聞いて「終わっちょうで。」と返す。これは終わったことが続いている現在完了形を表現しています。現在の日本語には完了形はないといわれていますが、幡多弁や土佐弁にはあるんです。こんなに時制を駆使する方言はなかなか無いのですが、あまりメジャーになっていないこともあり、この言語で芝居を組み立てたいと思いました。また、私がなぜホンを書こうと思ったかといいますと、私自身、モラトリアム期が長く、歳を重ねていっているのに何者にもなれていない焦燥感や、自分はどうなったら幸せなんだろうということが明確でないままお芝居を続けてきました。そんな自分自身のことを、なんとか台本に起こして、観てもらうかたちにパッケージしたいと思ったからです。だから戯曲に出てくる登場人物は自分の心の中を代弁している気がして、心の中を他人に覗かれているようで初演はとても恥ずかしかったです。
岩崎:これは書かれて何本目でしょう。
竹田:一本目です。それまでに、コントで15分ものの短編は書いたことがあるのですが、長編を書いたのはこれが初めてです。
岩崎:ものすごくよく書けていると思ったんです。そんな一本目でサラっと書けるものなのかと思って。竹田さんが所属されていた売込隊ビームの座付作家で、今はiakuで活躍されている劇作家の横山拓也さんの薫陶を受けたんですね。
竹田:影響はあると思います。
岩崎:演出はチャーハン・ラモーンさんですが、これは竹田さんの大抜擢ですか?
竹田:はい。私が、まずチャーハンさんに演出をお願いし、それから俳優たちを集めました。チャーハンさんのお母さまのご実家が同じ幡多郡なんです。幡多郡の空気感、夏のあつーい感じや夕方の感じ、磯臭い感じとかが肌でわかる人なので、その空気感が伝わりやすいと思いお願いしました。実は出演いただく泥谷将さんのルーツも幡多郡、下村和寿さんのご実家も幡多郡なので、関西で奇跡的にも演劇をしている幡多郡のメンバーを集めたかたちになりました(笑)。
岩崎:土地が持っている何かがあるのかな。文字を読んでいても、匂い立つような空気感が漂ってくるのは、幡多弁のせいなのだなと思いました。

 

■『ほたえる人ら』について
©horikawa takashi

竹田:この作品を旗揚げで上演し、今回は再演になります。「ほたえる」は関西でもいう「わちゃわちゃ騒ぐ」「あばれる」みたいなことで、コメディの群像会話劇になります。「区長場」という、市役所の出張所のもっと小さい、デスクを置いているだけのような場所が舞台です。そこに勤めている区長さんは、地域おこし協力隊から派遣された、よそから来た人で、なんとかその土地に馴染もう、かつ移住者も増やそうと頑張ります。けれど、村の人たちが区長さんのやることをうまくいかないように足を引っ張ったりします。なぜ区長さんがこの場所を選んだのか、なぜ村人がここに留まって住んでいるのかという、それぞれの事情や心の葛藤を、わちゃわちゃしているなかで掘り出していくという話です。
岩崎:ソーラーパネルがキーになっていますよね。
竹田:区長さんはソーラーパネルが増えるのを阻止しようとしているのですが、それを進めようとしている村人もいる。それぞれの事情や私欲もあって、歯車が回っていかない。
岩崎:区長さんが反対なんですね。
竹田:はい。ソーラーパネルは人が出て行った空き家を潰し、更地にしたところに立てます。だから、区長さんはソーラーパネルが反対というより村から人が流出していくのを止めたい、そして移住者を増やしたいという思いが強いんです。でも、そこにソーラーパネルの会社が数を増やそうとして…。その軋轢も描いています。

 

■質疑応答

Q、『夕夕方暮れる』のタイトルと登場人物たちの関係性についてお聞かせください。
植松:「夕夕方」は私の造語で、いくつかの夕方が同時に暮れていくという意味のタイトルです。「夕夕」は縦書きにすると「多」という漢字にも見えますが、月・火・水・木・金の5つの曜日の夕方をワンシチュエーションで描くことを意識しています。5つの時間は同時に始まり、各登場人物の物語が混ざった状態で止まらずに進行します。それぞれの物語が時間軸ごとに独立して進むわけではないの、例えば、ある曜日に出てきた人物が別の曜日に出てくることもありますし、登場人物同士でも知り合いもいれば他人もいる、絡む人もいれば絡まない人もいます。公園を毎日通る人や、昨日と今日とは別の理由で公園にいる人も登場します。当然、曜日ごとに人が舞台上にいない時間帯もあります。様々な人間関係があるなかで、話が進むうちに最初の関係性と違ったものに変容していく様子を描きたいと思います。
岩崎:大きな社会的な事件が根底にあるのでなく、登場人物たちの個々の事情で進むのですね。
植松:はい。個別のストーリーの集積で、人間関係はすごく小さいところでの繋がりです。ただ、20~30代の人物を描くので、今の若者の哀愁を全体的に漂わせられたらと思っています。あと、私はいつも、アイデアをどう破綻させないかから創作をスタートするのですが、今回は各曜日をどうお客様にわからせるのかが悩みどころです。作劇から考えると、登場人物たちの関係性が徐々にわかるようにして、その集積の結果として、曜日は、わかる人には最後にわかるというかたちになりそうです。
岩崎:時間は戻りますか? 月・火・水…と進むのではなく、金・火・木みたいに。
植松:月から金の時間が同時に進みますが、最初の出来事が金曜日で、次の出来事が木曜日だったら…結果的に時間は戻っていますね。
岩崎:なるほど、パズルですね。

 

Q、「現代の実感を掬い上げる」「若者の哀愁」について、もう少し具体的にお教えください。
植松:私が大学を卒業したのが2010年。就職の“超”氷河期でした。今、就職率は上がっていますが、別の苦しみが新たに生まれている。つまり日本社会は、急成長していた時期から停滞の時期に入り、これからいかにして落ちていかないか、もしくは落ちていくしかないのかという時代になっている気がします。若者がどんどん貧乏になっていく時代で、人生の時間がまだ倍以上あるなか、彼らがどういう考えを持って、周囲の人たちと生きていくのかを描きたいと思いました。別の日の同じ時間に起きている出来事を知らないというアイロニーとか、今日、悩み考えていたことが実は昨日のうちにどうしようもなくなっていたとか、そういう、時間が一直線に進んでいかないことによる苦しみを、今の時代と重ねたいと思っています。
岩崎:だから夕方なんですね。朝じゃうまくいかないんだね。
植松:はい。『午前3時59分』は一人多役の構造で描きました。結局はみんな、同質の人間にしか出会っていないのではないかという仮説を、演劇的な仕掛けで表現した作品です。今回の同時進行も、単なるアイデアだけで終わらせてはいけないと思っていて、必然性のある構造にしていきたいと思っています。

 

Q、『ほたえる人ら』のモデルになったエピソードはありますか。
竹田:地元の足摺岬の地域は、人の流出が本当に激しいんです。私の通っていた小学校や中学校も廃校になって、子育てが難しい感じで、そこにソーラーパネルの会社がやってきてソーラーパネルが増えていっているという状況が現実にあります。実家に帰省したとき、友人の家がソーラーパネルになっていて、驚いて二度見しました。村の景色のなかに、急に光り輝く銀色の板が出現するさまが、自分の知っている地元じゃ無くなっていく感じがすごくしました。でも、その家の事情もあったんだろうと考えると、「この景色は嫌だ」という簡単なことだけではすまないと思うので、そこを少し面白く描いてみようと思いました。

 

Q、幡多弁の過去形と完了形について書くときに意識されていますか。
竹田:私自身が幡多弁のユーザーなので、書くときもあまり意識せずにこうした細かい時制を使っています。発話だけだと何を言ったかわからないときがあるかもしれませんが、今回はお芝居なので、動きだったりで、この人は今、何か困ってそうだなとか、何となく過去のことに怒り続けているなとかが伝わって、お客さんの意識が繋がっていくのではと思っています。

2019年4月 大阪市内にて


2019年度次世代応援企画break a leg 

立ツ鳥会議『夕夕方暮れる』2019年6月8日(土)・9日(日) 詳細

ばぶれるりぐる『ほたえる人ら』2019年6月14日(金)~16日(日) 詳細

平成30年度演劇ラボラトリー 空晴プロジェクト公演
岡部尚子インタビュー

アイホール自主企画として、昨年5月に開講した演劇実践講座「演劇ラボラトリー 空晴プロジェクト」。1年間の集大成として、2月23日・24日に『君をおくる君におくる』を上演します。作・演出を手がける岡部尚子さんに今回の作品について、当館ディレクターの岩崎正裕がお話を伺いました。


■母と子を二つの話で描く『君をおくる君におくる』

岩崎:演劇ラボラトリーは、アイホールが実施している一般を対象にした演劇実践講座です。2016年からは「空晴プロジェクト」として、岡部尚子さんに関わっていただいています。3年目の今年はいかがでしたか。
岡部:参加者は、2年・3年連続の人がいたり、1年目の人が再び参加したりしているので知った顔は半分ぐらいいます。今年も20代~70代までの年齢層の人が参加しているんですが、1年目から2年目より、2年目から3年目のほうが雰囲気がガラッと変わった印象があります。男性がかなり少なくなって、お母さま・奥さま世代の40歳以上の女性がいつになく多かったからでしょうかね。
岩崎:ということは、女性目線の作品になるということですね。
岡部:1年目は男子寮の話のなかに出産や育児をテーマにした女性の視点を入れましたし、2年目は親戚の集まりの話ですが女系家系の設定でした。ただ今年は、出産や結婚だけでなく、母と子についてもスポットを当てているので、その傾向はより強くなるかと思います。
岩崎:世代の幅があるから、親子の設定が成り立つんだね。タイトルは『君をおくる君におくる』ですが、今回も、もととなる作品があるのですか。
岡部:2015年に劇団キャラメルボックスのハーフタイムシアターに書き下ろした『君をおくる』という作品です。キャラメルボックスでは、上演時間1時間の作品の二本立て公演を企画されていて、その枠で、マンションの一室で起こる7人の登場人物の物語を書いてほしいという依頼がありました。出演者も依頼された時点で決まっていて、その役者さんたちにあてがきしました。今回は、その作品をもとに少し膨らませてラボ用として書き直しています。ラボラトリー1年目・2年目の公演は空晴で発表した作品をもとにしていましたが、『君をおくる』は外部の劇団に書いた作品だったので、より女性の視点が強くなっているかもしれません。そして「君におくる」という新たな話も加えることにしました。
岩崎:どういうお話なのでしょう。
岡部:『君をおくる』は、マンションに引っ越してきたヒロインが、なぜこの部屋に越してきたのかという話から始まります。旦那さんと悲しいお別れをしてきたであろうことが、彼女を手伝いに来た人との会話から垣間見えてくるのですが、そのうち、「頼まれたから手伝いに来た」と言っていた人が実は頼まれていないと判ったり、引越屋さんだと思っていた人がそうじゃないらしいとなったりと、じゃあ「お前は誰なんだ」という、私がよく描く勘違いのドタバタが繰り広げられます。そこに部屋を間違えてきた“お母さん”がやってくることで、“お母さん”自身の経験から、女性としてこの「別れ」はどうなのかということに立ち返っていきます。ヒロインが引っ越してきた本当の理由が徐々に明かされていくあたりから、お話が動き出すのが『君をおくる』という作品です。
 ただ、今回の公演にあたり、ヒロインをわざと不在にしました。実際に登場するのはその友達で、彼女の想いを代弁するかたちをとることで、ヒロインに自分で語らせないようにしました。空晴同様、ラボラトリーでも、主役を立てない群像劇をつくってきましたので、今回もそうしたかったんです。もちろん、新たな登場人物も出てきます。また、マンションの別の部屋で、部屋を片づけようとしているお母さまたちの話として「君におくる」という新たな話を加え、二つの部屋の話が同時進行するという―演劇にはよくある手法ではありますが―私にとっては珍しい構成にしました。
岩崎:セットはひとつで、違う部屋になるんですか。
岡部:二つに見えるような、ひとつに見えるような造りにしてほしいとオーダーしました。今までの二作品は、男子寮の炬燵のある共有スペースや、親戚が集まる旧家の大広間で押入れや襖があってみたいな、かなり具象に寄った美術だったのですが、今回は空晴にはまずない、抽象的なものをお願いしました。
岩崎:この美術家(西本卓也)は具象と抽象、両方できるからね。
岡部:結果、めちゃめちゃ面白いです。出来上がってきたプランをみて、じゃあこうしよう、ああしようとアイディアが出てくる。演出をつけていて面白い。でもだからこそ、すごく難しい(笑)。役者もまだ、自分は今どこに立ってんねんみたいなことになっています。今回も舞台を三面にして客席をL字型にしますし…本当にチャレンジさせてもらってます。

 

■『隅田川』からのインスピレーション

岩崎:今回、能の作品もベースにあると聞いたんですが…。
岡部:『隅田川』という演目です。私、これを観て、めちゃめちゃ感銘を受けてしまったんです。お能なので話はとても単純です。人さらいにさらわれた息子を狂女となって探しにきた母親が、一年かけてようやくたどり着いた隅田川で、向こう岸で念仏を唱えている人たちを見つけます。「あの人たちは何ですか」と渡し守に尋ねたら「一年前の今日、亡くなった子どもがいてね」と語り始め、その話が自分の子どもだと確信します。向こう岸に渡ると“塚”があって、母親はここに息子が眠っている、掘り起こしたいと言うのですが、念仏を唱えることで成仏させてあげなさいと言われ、念仏を唱えるんです。すると、“塚”から子どもの声が聞こえてくるという…。
岩崎:ああ! 能には必ず、死者との対話がありますね。
岡部:はい。私がお能に惹かれたところはそこなんです。もちろん、そうじゃない演目もありますが、多くは死者が出てきて「弔ってほしい」という思いを語ることが多いです。『隅田川』では、子方(子ども)を使って、本当に子どもの声が聞こえてきますし、実際に登場する。そして、その子どもを母親が抱きしめようとするけど、すれ違ってしまうという演出があります。『隅田川』の作者は世阿弥の息子の観世元雅なんですが、実は670年前、世阿弥と元雅はその子方を出すか出さないかで意見が対立したそうです。幽霊だから出す必要はないという世阿弥に対し、元雅は子方を出さなければ上演できないと強く反論したそうです。この演出方法の議論って、現代演劇で今もされていることですよね、そのことにまずびっくりしたんです。
岩崎:『風姿花伝』を読むと、世阿弥が言っていることは、今の現代演劇にほとんど通じているでしょ。
岡部:そうなんですよ! 私は解説付きの能を観て知ったのですが、その解説を聞いて高ぶってしまって(笑)。なんじゃこれ、と衝撃を受けてしまったんです!
 『君をおくる』のベースにあるのは「間に合ったのか、間に合わなかったのか」ということです。ヒロインの女性が旦那と悲しい別れをして、一人で引っ越してきたけど、本当にそれでよかったのかという話ですが、実際、自分が誰かに対してこうしても良かったのかもと気づいたとき、その相手はもういないということがあります。けど、次に同じような状況になったとき、自分を改めることができたり、違うことを考えることができたら、それは間に合ったんじゃないかということにしたいんです、私は。だから、亡くなったらそれで終わりじゃなくて、その人に教えられることがまだある。こちらからの声は届かないけど、亡くなった人からの声は届くみたいな思いが私の中にはすごくあって。それが『隅田川』を観たときにすごく通じるものがあったんです。『隅田川』では、渡し守が「子供の声が聞こえた」と言うんです。それは「本当に聞こえた」ともとれるし、「聞えたということにしてあげる」ともとれる…。このラボラトリーでは、私がいつも空晴で大事にしていることをベースに新しいことに挑戦しているのですが、今回はどうしてもこの要素を加えたいと思い、それを「君におくる」の部分で取り入れました。

 

■能の表現方法を取り入れて

岩崎:今回、能楽師の人にも来ていただいたんですよね。
岡部:講座の前半に特別講座として来ていただきました。『隅田川』を今回の作品に関わらせるかもしれなかったので。ただ、『隅田川』の解説ではなく、「お能とは」から始まって、世阿弥の言葉について―例えば「初心忘るべからず」といった普段使っている言葉の由来―や、世阿弥の芝居論が今にも通じていること、そしてお能の「見せ方」を教えていただきました。見せ方でいうと私は“足し算”をすることが多いので、お能の極限まで“引き算”にする見せ方は面白かったです。たったそれだけの動きでそんなにたくさんのことを表現しているなんて、あらすじを知らないとわからないことがお能には多々あります。能がわからないという言われる所以かもしれないのですが、知るとそこが面白かったりもします。そういうところを教えていただきました。今回、『隅田川』に影響されて書いたところもあるので、やっぱり、ラストの動きや一部の所作にお能の要素を取り入れたくなりまして。もちろん、お能をそのままするつもりはありません。ただ、こういう表現をしたいとき、お能ではどうするのか、型をそのままするのではなく例えばこういうことができますよとアドバイザーとして教えていただいたことを、少し取り入れています。
岩崎:相通ずるものがあったんですね。
岡部:もともと私がベースにしたい部分もありましたし。なにより、私の普段の作品では、どうしてもサービス精神が旺盛になってしまってアピールしなくちゃ、となるんですけど、そこを削っていく作業を手伝っていただいたという感じですね。
岩崎:「秘すれば花」ですね。秘訣は隠しとけと世阿弥が言った(笑)。
岡部:そして、隠していることも隠しとけと(笑)。
岩崎:そうそう(笑)。
岡部:お能は知れば知るほど面白いです。年々、お能を観る回数が増えてきて、私がなぜお能を好きになったかに立ち返ったときに、あっ、死者との対話だと。
岩崎:作品づくりと繋がったんだね、出会いやね。
岡部:本当に。だから今回、是非、『隅田川』の要素を取り入れたいと思いました。ただ、死者との対話に対しても、年月の経っていないものはやめようと思った時期があって、少し時間が経っている設定に変えました。生きていくための理由付けかもしれませんが、向こう(死者)からは何もないし、してあげられることもないかもしれないけど、生きている私たちが納得するためにやっていくことを、お能から学んだと思うので、それを作品に反映させたいと思っています。
岩崎:今の岡部さん自身と、深く関わりのある作品になっていると言えるんですね。
岡部:結果、そうなってしまいましたね。もちろん、いつも身近なことを題材にしているんですけど、より、そうなってしまいました。
岩崎:こうした試みがこのラボラトリーでできるのはいいことですね。空晴ではあるクオリティを出さないといけないけど、ここでは思い切ったこともできる。
岡部:ラボ生の手を借りてできていることも多いです。年代も幅広いし、私たちがやるより、オブラートに包める部分もあるし、反対に直接響く部分もある。本当にこのラボで3年目があって、この作品がこのタイミングでできることに、私自身が簡単には言葉にできない思いがありますね。

 

■3年間の集大成として

岡部:このラボラトリーで、自分の昔の戯曲をアイホール用に書き直すということを3回やらせてもらいました。今まで、自分の作品を再演することも無かったし、ここまで書き直すことも無かったので、めちゃめちゃチャレンジしていると思います。1年目は劇場空間や舞台の使い方、オープニング・エンディングを入れるという工夫をしましたし、2年目は三場構成にして時間軸を飛ばすことに挑戦しました。そして3年目の今回は、二つの同時進行のお話を抽象的なセットでやるという。手前みそですけど、自分のなかでも、ステップアップをしている感じがして、集大成だと思っています。
岩崎:自分の書いた作品を、再発見するみたいなことですよね。
岡部:ほんまそうです。よう、こんなん書いたなと思う部分もあれば、そこにプラスアルファしていくことで、より濃くしていくという作業がすごく良かったです。
岩崎:そうか、三年間の集大成。
岡部:だからこそ、ちょっと難しいです。抽象的な舞台美術もですし、お話がひとつじゃないので、みんなの戸惑いもある。でも、年々難しくなっていくのは当たり前ですよね、私の課題も増えていくから、みんなに与える課題もおのずと増えていく。今回、初舞台の人もいるんですけど。
岩崎:ええじゃないですか。岡部さんの舞台は、基本的にはわかりやすいものが多いから、抽象性の高い空間でどうみえるか、すごく楽しみですよ。
岡部:お話がわかるかなという不安もありますが…。
岩崎:いいねえ、その演劇的な不安。
岡部:いつもなら絶対わかると思えることが、二つの話を同時進行することでわからなくなるんじゃないか。こっちの話を忘れるんじゃないかとか、どこまでどうなっているか覚えてくれているかとか。こういう構造のお芝居は今までもあるから大丈夫と思うのですが、台詞のリズムや発し方などはやっぱりプロの俳優ではないので…。でもなんとかして、お客様にわかってもらいたいし、見せていきたい。
岩崎:最後まで粘ってくださいね。
岡部:もちろん。先日、初めて最初から最後までの「通し稽古」をしました。ボロボロの部分は多々あるんですけど、なんとか通った。一度、通したことで見えてくるものもあると思うので、これからの役者たちに期待して、頑張ります。

2019年2月 アイホールにて

■公演情報
平成30年度 演劇ラボラトリー 空晴プロジェクト公演
『君をおくる君におくる』
作・演出/岡部尚子
平成31年
2月23日(土)19:00
2月24日(日)12:00/16:00
詳細はこちら

燐光群『サイパンの約束』 坂手洋二インタビュー

AI・HALL共催公演として2018年12月14日(金)~16日(日)に、燐光群『サイパンの約束』を上演します。客演に渡辺美佐子さんを迎えて送る新作です。

燐光群主宰であり、作・演出の坂手洋二さんに、作品の見どころや創作の背景についてなどお話しいただきました。

 

■創作のきっかけ

撮影:姫田蘭

 この作品はタイトルの通り、サイパンが舞台です。実は、本作の主人公ハルエのモデルは、私の妻の母親です。彼女は沖縄出身ということになっているのですが、生まれは第二次世界大戦中の北マリアナ諸島のサイパン島で、幼少期はサイパン島の近くにあるテニアン島でも暮らしたそうです。

 北マリアナ諸島は、1899年からドイツが統治していました。その時代、テニアンは人払いされていて無人島になっており、牛などの動物しか住んでいなかったそうです。第一次世界大戦後、日本が連合国側として勝利し、敗戦国であったドイツの領土である北マリアナ諸島を日本が全部譲り受けて、その後29年の間、サイパンは日本となりました。サイパンやテニアンは日本からの移住者が多く住む移民社会となったのです。

 当地では日本人が「南洋興発」という会社を設立し、テニアンでは、荒れ放題のジャングルのような島を開墾してサトウキビ畑を作りました。第二次世界大戦中のサイパンは、元々住んでいた人たちよりも日本人の方が多くなり、ピーク時はその7割が沖縄の人たちだったそうです。サイパンの市街地である「南洋の東京」と呼ばれたガラパンだけで1~2万くらいの人が住んでおり、物資がきちんと流通していて映画館や劇場、カフェなどもあって、華やかでものすごく栄えていた町でした。

 そのように華やかな時代のサイパンに暮らしていた義母に、もう一度サイパンに行きたいと言われて5年前に連れていったのが、本作を創作する一つのきっかけとなりました。

 

■戦争の記憶

 サイパンでいちばん高いタッポーチョ山の山頂に義母と一緒に登ったのですが、そこから下の浜辺を見て義母が「あそこがアメリカの船団で真っ黒だったのよ」と言いました。1944年に米軍が到着した時、チャランカノアとガラパンの間の平らな浜辺に千何百という船で7万人の兵士が押し寄せたそうですが、その大軍が真っ黒に見えたのでしょう。この時の攻撃は軍隊同士だけでなく民間人にも及んだそうです。この戦いで追い詰められた日本人の多くがサイパン島の北端にあるバンザイクリフから飛び降りたり、剃刀を使って自決したそうです。また、サイパンとテニアンには、日本軍が絶対防衛権の端をサイパンに設定し作った4つの飛行場がそれぞれにありましたが、全てアメリカの艦隊に取られました。このうち、テニアンにあるノースフィールドという飛行場から、原爆を落とした2機の爆撃機が飛び立っています。

 もう一つ印象深いのが、沖縄にいる90歳の方から聞いた収容所の話です。サイパンで米軍に投降した日本人は収容所に入れられました。その人たちの多くは「勝ち組」と「負け組」に分かれていたそうです。終戦直前まで「戦争に負けていない」という情報を軍が流していたため、戦争は終わったのに日本は負けていないと信じている「勝ち組」と、負けたという現実を受け止めた「負け組」に分かれたのです。終戦後、移民の多かったブラジルでも「勝ち組」が「負け組」をリンチし殺害するという事件が起こったのですが、サイパンの収容所でも「勝ち組」が「負け組」を殺してしまうという殺人事件が起こりました。そのエピソードも今作で取り入れています。

 『ピカドン・キジムナー』(2000年)という作品で沖縄に引き揚げた長崎・広島の被爆者を描きましたが、サイパンからの引揚者も沖縄に帰ってから苦労があったようです。移住をせず沖縄に住み続けていた人たちは、地上戦で土地を焼け野原にされ、収容所に2~3年入れられている間に米軍に基地を作られ、住民の三人に一人が亡くなっている状態でした。そのため、引揚者に対して差別があったそうです。

 最近、渡辺美佐子さんに「戦争の話を劇にしようという人は今はあなたぐらいしかいないのよ」と言われました。僕が「劇団チョコレートケーキの古川健くんとか、詩森ろばさんとか、戦争を扱う若い作家もいますよ。特に古川くんは歴史が好きですし」と言うと、美佐子さんは「(戦争が)歴史になっちゃうのよね」と嘆かれました。つまり、戦争を昔の問題でなく、今の問題として捉えてほしいということなのだと思います。僕も世代的には戦争が終わって15年後くらいに生まれたので知識しかありませんが、戦争に直面した人たちには出会うことができています。ただ、あと10~20年すると戦争を知っている人が日本中からいなくなってしまって、本当に「歴史」になってしまうと危惧しています。美佐子さん自身も空襲体験があるので、戦争を「歴史」として風化させたくないという思いが強いのだと思います。

 

■客演の渡辺美佐子さんについて

『サイパンの約束』東京公演 舞台写真 撮影:姫田蘭

 渡辺美佐子さんは、『星の息子』(2012年)や『お召し列車』(2015年)を含めると、燐光群に今作で6本目の出演になります。本作はいままでの集大成になると思っています。美佐子さんを一言で言うと「ザ・女優」です。俳優座養成所出身の新劇の女優さんですが、若くして映画スターであった彼女は「劇団は何も教えてくれなかった。着物の着方も挨拶の仕方も全部撮影所で学んだのよ」が口癖です。また、新劇の中では、井上ひさしさんの『小林一茶』や『化粧』、斎藤憐さんの『グレイクリスマス』初演などに出演しています。美佐子さんとの創作は、井上さんや斎藤さんと一緒にいたときの感覚を思い起こさせます。そんな映画の黄金期や新劇のいちばん良い時代も知っている人です。また、美佐子さんの凛とした感じや醸し出す空気が、きっぱりとある決意を持っている人という感じがして力強いです。近年の線が細い女優さんとは違う圧倒的な力があります。その部分を活かし、『星の息子』の時の彼女は二枚目のヒロインで、現代の女性としてかっこよく描きました。今回は、最初15分くらい、主人公と相手役の男性が思春期の頃の恋愛を思い起こす官能的なシーンがあります。その思春期のころの主人公も美佐子さんが演じるのですが、彼女の持つ二枚目な部分だけではなく、柔らかさやエロスというところも中心に置いた「渡辺美佐子ショー」を目指しています。

 

■映画を題材に

『サイパンの約束』東京公演 舞台写真 撮影:姫田蘭

 いままでも『天皇と接吻』(1999年)のように映画を題材にした作品をいくつか創作してきましたが、今回も映画を扱います。『天皇と接吻』は、自主映画を作っている現代の高校生の話と、終戦直後にドキュメンタリー映画を撮っている会社の話とが重なっていきます。要するに映画製作の話の中で劇中劇が描かれ、二つの時代がクロスしていくという二重構造の作品です。本作は、現代のある映画会社がサイパンの寂れ切ったホテルの半分を貸し切って、オールサイパンロケで『サイパンの約束』という自主映画を撮っているという設定です。また、映画はハルエの半生を元にしているため、その記憶を辿るためのワークショップもしているという二重構造で話が進み、今と過去とがごちゃごちゃになっていきます。このような大胆な設定を取り入れられたのは、今年の大ヒット映画『カメラを止めるな!』のおかげかもしれませんね(笑)。あの作品も二重構造で、自主映画がちゃんとした映画になるというのが一般の方にも伝わった作品だと思います。実は僕も自主映画小僧だったので、好ましく観させてもらいました。再び映画を舞台に設定できるのが楽しみです。

 

■現代の日本や演劇について考えること

 最近、よく言う言葉で「見やすかった」という誉め言葉がありますが、僕はそれを言われると腹が立ちます。むしろ、なんだか分からないシーンで終わったというふうにしたいくらいです。そう考えると、ちょっとしんどい思いをするかもしれないけど「ある体験」をするために映画や演劇を見に行こうという人が今は減ってきているのかなと感じます。そのように日本社会が変わったと思うのが1980年代からです。それまでは生産者社会だったのが、サービス業の方がそれを上回って消費者社会になったのです。お金のやり取りだけで仕事が成り立つから、物を作らず、衣・食・住などの人間が生きる最低限のことに関わらない生き方の人が増えたのでしょう。そして結果的にお金をもらってサービスすることが仕事になったために、サービスを求める消費者ばかりが増えてしまったのです。現在は、全国どこに行ってもチェーン店があり、日本中が同じ景色の同じ町になってしまっていました。日本という国が一つの消費の仕組みに完全にはめられてしまったのです。昔ながらの魚屋さんがコンビニに代わったり、映画館がシネコン形式に代わったりという変化もその一部だと思います。

 その点では、昔、何もなかったサイパンにあちこちから移住し、サトウキビを作ったり動物を飼ったりと、日々は衣・食・住を自分たちで賄いながら仕事をし、ときどき楽しくてゴージャスな「南洋の東京」ガラパンの繁華街で消費を行うというバランスがやはり人が生きている姿としていちばん美しいのではないかと思います。今はもう、サービス業の働き手しかおらず、私たちが食べている者はほぼ誰が作っているか分からないし、服もほとんど海外で作られているものばかりです。そのうちサービス業でさえロボットが使われていくようになるでしょう。では、そういう時にいったい人間は何をやって生きていくのでしょう。昔は、食べていけないから海外に渡っていった人たちの世界があったのに、これからはサービスされるためだけに生きていくのでしょうか。サイパンを調べていてそんなことを感じました。

 昔の映画を最近見ると面白いです。この作品の中にもベネツィア映画祭で初めて日本映画が賞を取った『五人の斥候兵』(1938年)という支那事変(日中戦争)の翌年に公開された国策映画が出てきます。それがすごくリアリズムの映画なんです。当時の人たちは、出演者やスタッフが実際の戦争体験がなくても、戦地に行っている人や戦中に生活している人たちのことを世間の常識として理解しているので、空気感がおのずと伝わっていたように感じます。でも現在の演劇は、今の人間が演じて今の人間しか出てこないので、どうしても受動的で消費者的な生き方が舞台上で出てしまいます。また、テレビのバラエティでの演技が本当の演技と誤解している人たちが観ている状況の中にいると、やはり本物の演技ってなんだろうとか、わざわざ人間が人前で演じるってなんだろうということを考えてしまいます。そう言う意味では、渡辺美佐子さんというお手本がいることで、いろいろと気付かされることがあります。美佐子さんと同じシーンに出ている他の俳優は、どうしても過剰な演技をしてしまいがちです。なぜかというと、「存在する」ことの意味が薄すぎてしまうのです。人にどう見られているかとか、人にどう伝わるかについて今の人たちはあまり苦悩していないのです。だから最近、若い俳優に意地悪で「お前の芝居はカラオケだな」と言います。カラオケのように自分の好きなように歌って自分の順番を待ってということと、今あなたがしている演技はどう違うのかということを考えさせるのです。舞台では誰かと一緒に存在しているということを分かっていなければいけないよ、と伝えています。

 

 

2018年10月 大阪市内にて


燐光群 
『サイパンの約束』
作・演出/坂手洋二
 
2018年12月
14日(金)19:00
15日(土)14:00/19:00
16日(日)14:00
 
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KUDAN Project『真夜中の弥次さん喜多さん』天野天街・小熊ヒデジインタビュー

アイホールでは自主企画として、KUDAN Project『真夜中の弥次さん喜多さん』を12月7日~9日に上演します。脚本・演出を手がける天野天街さん(少年王者舘)と、出演の小熊ヒデジさん(てんぷくプロ)にお話しを伺いました。


■「弥次喜多」約13年ぶりの関西公演

小熊:「KUDAN Project」は、1998年に天野天街と僕を中心に結成しました。二人芝居を主に活動する団体で、「てんぷくプロ」所属の僕と、東京を拠点に「tsumazuki no ishi」を主宰している寺十吾が出演しています。再演に耐えうる作品を発表することをコンセプトに、同じ作品を繰り返し上演していく過程で、完成度や強度を高め、作品を育てていくことも目指しています。第1作目が『くだんの件』、第2作目が『真夜中の弥次さん喜多さん』、第3作目が筒井康隆さん原作の『美藝公』と、三本の二人芝居を作ってきました。他に、2005年には『百人芝居◎真夜中の弥次さん喜多さん』という、一般公募も含め170人が出演する大掛かりな公演も行い、好評をいただきました。
 もともと、二人芝居をしたいという僕の思いからスタートしたので、『くだんの件』の初演(1995年)は、寺十ではなく別の俳優が出演しています。作・演出を天野に依頼したのは、僕が天野と『高丘親王航海記』という野外劇で初めて一緒に芝居をし、その後に僕の劇団に演出家として参加いただいた二度の経験から、彼しかいないと思ったからです。その後、一度きりの上演のつもりだった『くだんの件』に海外公演の依頼があり、それを機に、天野が寺十吾を誘い、改めて僕と寺十による『くだんの件』を立ちあげ、かつKUDAN Projectを発足しました。そのときは、スタッフ全員が海外公演は初めてで、僕と寺十も初顔合わせというスリリングで面白い体験をしました。その後も評判が良かったものですから国内外で上演を続けてきました。
 今回再演する『真夜中の弥次さん喜多さん』は、しりあがり寿さんの漫画を原作とした 演劇作品です。2002年初演で、いままで国内外で上演してきました。原作漫画の続編に『弥次喜多 in DEEP』があり、「第5回手塚治虫文化賞・マンガ優秀賞」を受賞(2001年)しており、2005年に宮藤官九郎さんによって映画化もされています。たくさんの人物が登場する壮大な物語を、われわれの舞台では、たった二人の芝居に仕立てています。また、『弥次喜多in DEEP』からも少しインスパイアされており、しりあがりさんの作品のエッセンスを損なうことなく作り上げられていると思います。前回の再演が4年前(2014年)の静岡芸術劇場SPACで、関西では精華小劇場のオープニング企画以来約13年ぶりです。何度も上演しているので、強度も上がっていますし、スタッフも含めずっと同じメンバーでやっているので、成熟度も増しています。この機会に関西の皆さんに観ていただければと思っています。

 

■二人芝居『真夜中の弥次さん喜多さん』誕生のきっかけ。

小熊:『くだんの件』を何年か続けていくうちに、このチームで「新作を作りたい」という話になりました。それで、確か『くだんの件』名古屋公演の本番日だったと思うのですが、朝、僕が出かける準備をしているときに、本棚の『真夜中の弥次さん喜多さん』の漫画が目に入り、取り出して数ページめくってみたら、「あっ!」となって…。そのまま漫画を持って劇場入りし、天野と寺十に「この作品を新作にどうかな?」と提案したら「いいね」ということになり決まりました。僕自身、以前からしりあがり寿さんの漫画のファンで、その中でも「弥次喜多」にはかなり衝撃を受けていました。ただ、次の二人芝居の題材にしようと思ったのは、本当にそのときに勘が働いたといいますか…。弥次さんと喜多さんという二人の話であることもですが、なにより天野の創り出す世界観としりあがりさんの世界観がうまくいくと直感で思ったんです。だから迷いませんでした。天野は、僕が提案したとき、どう思いました?
天野:聞いた瞬間に、これは決定だと思いました。しりあがりさんの漫画は、たくさん読んでいました。だから「これで新作をつくろう」と言われたときは、実は知っていたけどずっと隠れていたことが、ふっと目の前に出てきた感じがしました。忘れていたことを思い出すような感じがあって、「たぶんこれだったらうまくいくな」と。しりあがりさんときっと同じこと考えてるなとか、どこか通底するものがあって。ただ、演劇作品として立ち上げるのは…初演のときは思い出したくないぐらい大変でした。
小熊:台本が全部あがったのが初日の前日だったんですよ(笑)。今の上演時間は1時間40分なのですが、初演は2時間20分程あったんです。台詞は出てこないわ、繰り返しの部分がどこなのか分からないわという残念な結果で。正直、僕自身も何をやっているかまったく分からなかった。だけど、その初演を観ていた演劇評論家が「素晴らしい」と言ってくれたんです。「えっ、こんなにボロボロなのに」と驚いたのですが、ボロボロな出来栄えだったとしても、その作品自体の凄みはきちんと伝わる、それだけ何かとても強いものを持っている作品なのだと思いました。

 

■今回の再演にあたって

天野:今回も台本や演出については変えません。今までの上演でも、基本的に変えていないです。ただし、海外公演のときは、字幕の代わりに台詞を書いたボードを大量に作って、役者たちが言葉を発するのと一緒にそのボードを出すという、漫画の吹き出しみたいな演出を施しています。今回、変わるとしたら、俳優たちの経年による老化ですかね(笑)。なので僕はまず二人をよく観察しようと思います。二人の息やリズムは老化によって以前と変わってくるわけで、そのことで作品世界を包む空気も微妙に変わっていく。それらが有機的に化学変化する様子を物語の流れの中に取り入れたいと思っています。
 ただ、2年前に上演した『くだんの件』のときもそう思っていたのですが、実際に蓋を開けてみたら…二人とも、若いですね。変わっていないどころか前よりもキレがいいように見えた。まあ、観察者側の私も老けて、彼らのリズムと合っていて、変化に気がついていないのかもしれませんが(笑)。つまり、時間の経過に従っておのずと作品も変わってくるだろうと思っていますので、内容に関する演出方法は変えずに、よりこの作品を研ぎ澄ましていきたいと考えております。今まで何度も再演を続けてきたことで、僕個人の感覚としては、初演時にぼんやりと頭で思っていたリズムや間については“完成した”と思っています。これ以上は変わらないレベルまで達していて、そこから年齢が高じることで作品全体がより完熟した状態にしたいと思っています。
小熊:俳優からすると、初演は台詞覚えや段取りなど、こなさないといけないことが多々あるわけです。しかし、再演を繰り返すことでそれらは身体に染みこんでいく。十何年もやっていると細胞の中に入るぐらいのレベルまで(笑)。なので、本当にその作品の世界を生きることに集中できますね。あと、KUDAN Projectは劇団ではなく、僕も寺十もそれぞれ別の団体で活動している。だから、稽古を始めると、それぞれの別の経験を踏まえることができてやはり前と微妙に感触が違う。それがとても楽しいですし、お互いに培ってきたものが影響して、もう一度作品がつくりなおされていく感覚があります。同じ台詞でも、こういう言い方もあるし、ああいう言い方もあると可能性を出しあって、そのあと淘汰していく感覚です。今回の再演でも、それぞれの別現場で踏んできた経験もですし、天野が言った加齢も含め(笑)、色んなことが作品に盛り込まれていくと思います。もちろんスタイルは前回と変わらず、こうした微妙な感触の違いや変化があると思います。

 

■漫画の世界を演劇にする。

天野:表現として明らかに漫画と演劇は違います。この作品でしりあがりさんが漫画という表現の持つ特質を最大限に拡大しているからこそ、こちらとしては演劇という表現が持つ特質を全部導入して、演劇でしかできないことに変換するというやり方をしています。例えば、原作は漫画だからこそできる要素が多々あって、とてつもない変な登場人物が大量に出てきたり、時空間がどんどん変わっていったりします。これは旅の物語ですが、現実世界も脳内妄想も含めて二人は好きなところに旅しているんですよ。つまり、これを演劇にするには、演劇“だから”できないことのほうが多い。だから、マイナス要素をプラスにするより、大量の人物をたった二人にする―これは不可能性に抵触するのですが―、そのほうがキュッと締まって、別口において深く掘り下げることができるのではないかと思いました。
小熊:つまり、膨大な長編を逆にものすごくシンプルなワンシチュエーションにしたと。
天野:はい(笑)。原作の『真夜中の弥次さん喜多さん』と全8巻の『弥次喜多in DEEP』について、登場人物を全部書き出して、内容や登場人物をすべて解析しました。すると、この作品をそのままやることは不可能であると改めて思い知らされるんですよね。たった二人でこれだけの内容をそのまま演劇に置き換えるのは難しいとわかる。だから別のやり口を発見しなくてはいけないわけで、その結果が今回の芝居です。内容については見ていただくしかない。ただ、原作のエキスや本質は「こう書こう」と意識するのではなく、自分の感覚だけで進めることができました。原作の世界観と僕の世界観が似ているからとか、そういった抽象的な言い方しかできないのですが、しりあがりさんとシンクロする部分がたくさんあって。原作にもあるけど「私とあなた、どっちがどっちかわかんない」という感触はありました。
小熊:僕としては、二人の手触りのようなもの、「生死」であったり、「時間」であったり、そういう深く考えることや、考える対象、興味を持つ対象が似ているのかなと思います。
天野:ただ、僕もしりあがりさんもおそらく、「生死」や「時間」を“書こう”としていない。自然にそうなるというか…。“書こう”と意識したら、“書く”ことになってしまって、そうすると自分としては“書いた”ことにならないんです。だから意識しない、深く考えない。台本を書く側としてはそういう感覚です。これは今、小熊さんが「深く考える」と言ったので、その二項対立として「深く考えない」と言ってます(笑)。

 

■KUDAN Projectだからできること。

小熊:今年で結成20年目であることにさっき気づいたのですが、やっぱり『真夜中の弥次さん喜多さん』を上演できること、これに尽きると思います。例えば、70歳で上演したらどうなるかという興味もまだまだ沸くんですよね。こういう作品に出会えたことは、俳優として本当に幸せだと思います。KUDAN Projectとしては、第4作目の新作も作りたいと考えています。それはこのチームでつくるという魅力、ほぼ変わらず同じメンバーで作っていく醍醐味があるからです。僕と寺十が一緒にやる魅力、あるいは天野と一緒にやる魅力、そして同じスタッフの息のあったチームワークの魅力。このチームワークこそがKUDAN Projectでしかできないことです。『真夜中の弥次さん喜多さん』も、表向きは二人芝居ですが、裏方には10人以上の人員がいます。海外に行くとき、もう少し人数を減らせないかと言われるのですが、無理なんです。公演地のスタッフに代わりをお願いすることも難しい。それぐらい緻密で膨大な量をこなすスタッフワークが本番中に発生する二人芝居です。
天野:演劇ならではの細かい仕掛けがたくさんあります。でもそれは白昼夢のようなものと同じで、分かってはいけないわけです。
小熊:物理的には舞台上に二人だけなので、風通しはいいんですよ。この風通しがいいというのが意外と大きな意味を持っている気がします。だからこそ、裏のスタッフワークが担っているこの芝居の世界観は、しりあがりさんの原作漫画の世界観にやっぱり似ていると思いますね。

(2018年10月大阪市内)


公演情報
平成30年度AI・HALL自主企画
KUDAN Project『真夜中の弥次さん喜多さん』
原作|しりあがり寿
脚本・演出|天野天街(少年王者舘)
2018年
12月7日(金)19:30
12月8日(土)14:00/19:00
12月9日(日)14:00

詳細こちら

現代演劇レトロスペクティヴ 山本正典×泉寛介×岩崎正裕 トークライブレポート

 

平成30年度の現代演劇レトロスペクティヴの開催にあたり、演出を務める、コトリ会議の山本正典さん(左)と、baghdad café の泉寛介さん(右)、当館の岩崎正裕ディレクターによるトークライブを行いました。


■『髪をかきあげる』『ともだちが来た』について

岩崎:現代演劇レトロスペクティヴは今回で9回目の開催になります。関西の中堅世代に、かつての名作戯曲に出会っていただき、それを現代においてどう立ち上げるかという趣旨のもと、今まで様々な作品を上演してきました。今年度はコトリ会議の山本さんに鈴江俊郎さんの『髪をかきあげる』『ともだちが来た』を、そしてbaghdad cafeの泉さんに野田秀樹さんの『野獣降臨』を取り上げていただきます。まず、戯曲の選定について、それぞれお話いただけますでしょうか
山本:実は僕、鈴江さんが主宰されていた「劇団八時半」の最後の公演に役者として参加しておりまして。その後に立ち上げた鈴江さんのユニットでも、役者や照明スタッフ等で関わる機会があり、鈴江さんにいろいろ教えていただきました。そういった縁もあり、「コトリ会議」を立ち上げるのに、ものすごく影響を受けているんです。なので、今回のお話をいただいたとき、真っ先に思い浮かんだのが鈴江さんの作品でした。ただ、上演作品については、『髪をかきあげる』は岸田國士戯曲賞の受賞作品で代表作だと思ったのであまり迷わなかったのですが、『ともだちが来た』については悩みました。この作品は男性の二人のすごくシンプルな芝居で、戯曲の7割ぐらいをト書きが占めていて、正直、どうやってこれを舞台上で表現すればいいんだと思ったんです。それでいったん横に置き、他の作品をやりたいと相談したんですが、その作品は僕が役者で関わっていた時期の作品でして、断念しました。
岩崎:補足しますと、今回の「現代演劇レトロスペクティヴ」では、90年代までの戯曲から選んでいただこうと、取り上げる時代の幅を広げました。今までは、90年代初頭まで、すなわち、平田オリザさんや現代口語演劇が登場する“以前まで”を照準に入れて作品選択をしてきました。ですが、お二人とも80年代生まれで、今まで登場いただいた演出家より世代がひとつ下になります。そうすると90年代の作品は観ていらっしゃらない。それならば、90年代までを射程に入れてお考えいただこうという流れになりました。ただ、山本さんが提案された作品は鈴江さんの2000年代の作品だったので、再考いただいた経緯があります。
山本:はい。
岩崎:『ともだちが来た』は面白いですよ。役名が「僕」と「ともだち」。これは画期的だと思いました。あらすじもシンプルですよね。
山本:「ともだち」が訪ねてきて麦茶飲んで帰った、本当にそれだけです。
岩崎:でも、この濃密さはすごいですよね。
山本:はい。ト書きが素朴で可愛らしいんですけれども、すごく凶暴な作品ですね。
岩崎:この作品は「二人の桟敷席」という、「劇団八時半」とは別の団体に書き下ろしたものです。『髪をかきあげる』も初演は30人ぐらいしか入らないスペースだったと聞いています。だから、両方とも初演を観た人が極端に少ない作品なんです。そうした地道な作業を重ねた鈴江さんが、『ともだちが来た』でOMS戯曲賞を取り、『髪をかきあげる』で岸田國士戯曲賞を取った。その二作品を今回一挙に上演するということです。

 

■『野獣降臨』への挑戦

泉:『野獣降臨』を選んだ経緯ですが、baghdad cafeは女性が主役を担う劇団ということもあり、まず、女性が前に出る作品が良いとは思っていました。それで、アイホールから候補作品もたくさん出していただいたのですが、なかなか決まらなくて。そのときに、主宰の一瀬が提案したのが『野獣降臨』でした。最初に読んだときは、正直、全く理解できなかったです。言葉も難しいし、この戯曲をどう読み解くのがよいのかわからない…。ただ、それでも劇団員全員がこれは面白いと一致しました。理由のひとつに、言葉のイメージの飛躍力の凄さがあると思います。簡単な例でいえば、「甘い」が「飴」に、「飴」が「雨」になったりする。そしてそれがどんどん複雑に飛躍していくんですが、最終的にまとまるという剛腕が、ものすごくかっこ良くて、しびれてしまいました。もうひとつは、野田さんがされていた役の性別が明確にはされていないので、もしかすると劇団の主演女優を当て込めば、うまくハマるのではないかという思惑もありました。あと、僕が演劇を始めたころ、役者として『半神』『贋作 罪と罰』『農業少女』といった野田戯曲に知人たちと取り組む機会があり、その影響を受けて、今、脚本を書いているのではないかと感じています。僕自身の源流を探るためにも、野田秀樹さんという大きな胸をお借りして、今回、挑戦しようと思い選ばせていただきました。ただ、山口館長はすごく渋い顔をされましたが(笑)。
岩崎:僕と館長は同世代なのですが、野田さんには、一種の憧れと羨望がありますからね。『野獣降臨』の初演が1982年で、1984年に「劇団 夢の遊眠社」がこの作品で初めて関西公演を行い、それ以降、関西でも野田さんの一大ブームが起こるんです。もちろん、大学生だった山口館長は「劇団 夢の遊眠社」で野田作品をご覧になっている。当時は大学の劇研でもたくさん上演されて、野田さんを真似ようとする人もいるわけです。でも、山口館長はそれが上手くいっている例をあまり見ていない。その印象があって渋い顔をされたのだと思います。あとね、僕らの世代は、関西に新しい演劇のムーブメントが進出してきたという期待と、この新しい演劇の動きに対して矢を放ちたいという気持ちの狭間で戸惑ったんです。野田さんは僕らにとってはそういう存在でした。でも、時代は移ったので、新しい方法がきっとあると僕は思っています。

 

■鈴江さんの薫陶を受けて

岩崎:山本さんは鈴江さんの薫陶を受けて戯曲を書き始めていらっしゃって、書き始めた頃の台本は、鈴江さんの影響を感じると多数の人に言われたそうですね。
山本:そうなんです。書き方を真似しようとはしていませんが、やはり、登場人物が置かれている状況や、その人がどういう心境なのかを考えるのが好きですし、そこから芝居を始めてしまいますね。
岩崎:鈴江さんの登場人物はみんな孤独ですよね。人に囲まれて騒ぎ立てている人があまりいないですよね。
山本:でも、みんな目の前にいる人が大好きなんですよ。だけど、かける言葉が見つからなくて、会話のすれ違いがあってどんどん距離が離れていく…。やっぱり僕もそういうイメージが好きでした。
岩崎:それは現場で一緒にお芝居をつくっていて、共感したのですか?
山本:鈴江さんのダメ出しは、台本を読み解いて役者にこうあってほしいという役のダメ出しでなく、人生のダメ出しをされている感覚になるんです。昼間はアルバイトや仕事をして、夕方から時間をかけて稽古場に行って、夜から深夜まで稽古して家に帰るという日々を知っているからこそ、鈴江さんは「人生でこんな苦労をしておいて、そんな台詞しか吐けないのか、時間と金をそんなふうにしか使えないのか」から始まり、「どうせ芝居をするんだったら、その台詞に人生を賭けろ」というダメ出しになっていく…、台本に関しての解釈は一切無いんです(笑)。
岩崎:具体論がないわけ?
山本:といいますか、役者が余裕こいてピャッと演じると、もう、“岩”が落ちてくるみたいな…(笑)。
岩崎:共通チラシのエピソードですね。ここ1ヶ月でいちばん笑ってしまいました(笑)。
山本:僕が役者で参加したとき、誰よりも早く真っ先に台詞を入れて、ものすごく優越感に浸りながら、バーッと語って「ほら、できた!」とやってみせたことがあったんです。するとなぜか鈴江さんがものすごく怒っているんです。それで「今からそこに岩が落ちてくるから受け止めろ」とダメ出しを言われ…。でも、その舞台の設定が工場の宿舎の一角なので屋根があるはずで、岩は落ちてこない(笑)。意味が分からないので「鈴江さん、屋内なんですけど…」と聞いても、「いや落ちてくるから。受け止めろよっ、なっ!」って言ってくる。そうしたら「はい」って言うしかない(笑)。しかたがないので、岩が落ちてくることをイメージしながら受け止めて置くという動作をしたんですけど、鈴江さんから「もっともっと」とか「大きいだろ」とか「強いだろ、岩は強いだろ」みたいな言葉が飛んできて…。台詞も言いながらなのに、途中で「今、受け止めてない」みたいなダメもあって。そのうち、台詞も虚ろになっていくので、もう必死で一生懸命やらざるを得なくて(笑)。それで“岩”を受け止めながら台詞を言い切ったときに、鈴江さんが「それだ!」と仰ったんですね。「それ、とは…?」と言いたくても言えないうえに鈴江さんもご満悦なので、これも「はい」と言うしかない(笑)。ちなみに、次の稽古までに岩が落ちてくる演技を自分の中でマスターして披露すると、鈴江さんは「違う」と言う…。もう本当に、余裕綽々で演技をする人間が大嫌いなんですよね、鈴江さんは(笑)。
岩崎:要するに負荷をかけたいわけですね。
泉:負荷をかけるという部分に関しては、山本くんと鈴江さんは面白がり方が似ていると思いました。山本くんも、役者が舞台上で一生懸命やっていたら喜んでますよね。
山本:僕は、シーンの稽古を始める前から役者をジッと見つめていて、役者自身がどんな負荷をかけるのかを見ているんです。でもだいたい今の役者は、チョロチョロっと雑談のような台詞回しだけで、全然熱がこもっていないと感じちゃいますね。
岩崎:現代口語的な対話でも熱がいると?
山本:はい。熱は欲しいです。だから自分の稽古場では、叫ばせる台詞回しをさせた後に、それを全て自分の内に込めろ、とよく言います。あっ、鈴江さんのようですね(笑)。
岩崎:鈴江さんは明快な滑舌で朗々と語る役者が嫌いなんですよね。だから、山本くんが体験したことは、90年代に鈴江さんが獲得した方法であって訓練法ですよ。役者の自意識みたいなもので舞台に立つなという。それが今の演出家に脈々と続いているというわけですね。

 

■緩急を使って立ち上げる

岩崎:80年代演劇の『野獣降臨』に、泉さんはどう挑もうとお考えですか?
泉:僕の劇団は、普段喋っている言葉をそのまま舞台上にあげる方法で作品をつくっています。今回も基本的にはその方法で進めたいのですが、やっぱり、この台本を僕らが普段喋るような口調で読んでも全然面白くない。だからこそ、足りない部分を身体や言葉の吐き方を変えて立ち上げていきたいと思っています。あと、僕はもう少し分業ができないかと思っています。例えば、この役者は肉体的にどう動くのか、この役者は言葉をどう扱うのか、この役者は心情をどう表現するのか、シーンの雰囲気をどうつくるのか…。人で役割を割るというわけでなく、その瞬間その瞬間に、このレイヤーを使いましょうみたいなことができないか試みたいと思っています。
岩崎:野田さんの作品は脳内麻薬が出ている台詞が多いじゃないですか。やはり身体的な熱量を伴わないと台詞が置いていかれるような気もしますが、そこをどうするのか、ですね。以前、コトリ会議とbaghdad caféの合同公演を拝見したのですが、山本さんの台本を泉さんが演出してまして、台詞がものすごい勢いでキャッチボールされている印象があって、演技のスタイルが分離しているという感じはしなかった。だから今、泉さんの演出の手順がどうなっているのか、すごく気になります。特に最近、様々な作品を演出されていますが、泉さんの作業のなかで、今まで積み上げてきた方法を、この作品でも活かすことができそうだという感触はありますか?
泉:僕も山本くんと同じで、熱量は嫌いじゃないんです。ただ、内にすごく熱いものを持っていて、それを閉じ込めたうえでの抑制された演技のほうが僕は好きです。でも、それとは別で、騒がしいシーンをつくることも好きです。だから、跳ね上がるようなシーンもあれば、ものすごく間を取ってじっくり動かないシーンもあるし、ものすごく喋るシーンもある。こうした方法を行き来するのが僕の手法かなと思っています。そうした緩急を上手く配置していけたらと思っています。
岩崎:僕の世代にとって「劇団 夢の遊眠社」は、“跳んだり跳ねたり”の代名詞だったんです。とにかく止まらない、ずっと舞台を駆け巡っている印象があった。でも、泉さんはそうでなくてもやれる可能性があると思ってらっしゃる?
泉:そこまで大それたことではないですが、それなら立ち向かえるのではないかと。
岩崎:昔、『新劇』という雑誌に柄本明さんが役者論を書かれていて。ちょうど「静かな演劇」が出てきたころで、「静かな演劇を静かにやっている奴は馬鹿だ」と書かれた。それは内面の熱量の話で、静かな芝居ほど内側が必要だと彼は言いたかったのでしょう。今、その言葉が僕のなかで直結しました。つまり、『野獣降臨』も内発するエネルギーみたいなもので、じっくりやれるシーンもあるということですね。
泉:そう思っています。この作品は、プロボクサーとして1勝しかあげられずに挫折した青年が主軸として物語が流れ、そういう挫折や孤独が描かれていると思います。もしかしたら当時の野田さん自身が何か孤独や疎外感を感じていたのではとも考えてしまいました。
岩崎:SPACの鈴木忠志さんが割と初期から野田さんをすごく評価したんです。野田秀樹も突然変異でなくアングラの系譜があって生まれたみたいなことを何かに書かれていて…。80年代の野田さんの戯曲は、少年性を語るということでも新しかった。確かに、戯曲から情念は感じないよね、女と男のドロドロとかは。
泉:ないですね。カラッとしている。
岩崎:あと、野田さんはとにかく舞台に立つ人だった。それで、今度シアタートークにお越しいただく高都幸雄さんが演出補としてついて、客席から舞台を観ていらっしゃったそうです。
泉:確かに、演出的なことは周りがどう支えていたか気になります。初期の野田さんは、作家としても演出としても優れていますが、やっぱり役者。野田さんの跳びはねるのを観たいというファンも多かったと聞きます。
岩崎:実はね、平田オリザさんは最初から「静かな演劇」をやっていたのではなく、初期は「飛んだり跳ねたりしてた」とご本人が答えていました。でも、平田さんは何か違うなと思ったわけです。それぐらい80年代に野田さんが編み出した方法論は圧倒的だったんですよね。そして、平田さんは現代口語演劇をつくっていく。鈴江さんも京都の老舗劇団に在籍していた反動で、「劇団八時半」を立ち上げ一人孤高の道を選び、“岩”が落ちてくる演出を発見した。つまりね、観客動員数が右肩上がりに伸びて時代の象徴でもあった野田さんの演劇と、孤独と向き合い少人数に向けてものすごい熱量でやってきた鈴江さんの演劇。今回の現代演劇レトロスペクティヴは、『野獣降臨』を観ると80年代が分かり、『髪をかきあげる』『ともだちが来た』を観ると90年代が分かる、そういう時代の変遷も見えるのではないかと思っています。

 

■80年代から90年代へ

泉:岩崎さんにお聞きしたいのですが、バブル期直前の、とにかく声を張り上げていこうという空気感から、現在の演劇の表現になるまでの変容を見ていらっしゃいますよね。僕、『野獣降臨』を読んだときに、どうしてこんなに狂騒的なのだろうと思ったんです。
岩崎:僕が1982年に大阪に出てきたときは、とてもカッコいい演劇がいっぱいあったわけです。つかこうへいさんの作品をされてる先輩とか、プロレスをまじえてエネルギーがバンバンでやっている先輩とかがいるわけで、こういうふうに作らなきゃいけないという脅迫感はものすごくありましたね。
泉:取り残されるみたいなことですか?
岩崎:それもありますし、舞台ってすごく彩られた世界で展開しなきゃいけないという思いが強かった。そのなかで僕の初期は如月小春さんを選びました。世界は終わっていて砂漠かもしれないという終末感から入るんです。でも、台詞にはすごく熱量があって、みんな舞台上を動きまくらなきゃ作品が立ち上がらなかった。それにだんだん疲弊してくる仲間が出てくるんです。あるとき、僕の劇団が東京公演の小屋を探していたとき、ウイングフィールドの中島さんがアゴラ劇場を提案してくださって、そこでいろいろ案内してくれたのが平田オリザさんだった。小屋守りとして劇場の使い方を説明してくれたり、終わったあとに一緒に飲んでくれたんです。そこで演劇論を交わして、でも完全に論破されて…。未だに歯を食いしばって酒を飲んでいたのを覚えています。そのときに初めて僕は「静かな演劇」を観るんです。内田百閒原作の『阿房列車』を平田オリザさん作でやっていたのですが、これが面白かった。で、関西に目を向けると、松田正隆さんや鈴江俊郎さんが出てきていた。それで、僕も関西弁で書かないと、このまま演劇を続けていたら、“跳んだり跳ねたり”に巻き込まれて疲弊してしまうと思った。つまり、90年代初頭、景気が冷え込んだときに、周辺を見て自分と向き合った作業をしようという人が日本に複数いたんです。だからやっぱり転換期だったんだと思います。そして90年代のひとつの方向性が出来上がっていって、鈴江さんから山本さんが生まれたということに繋がるのかと思います。
山本:なるほど。
岩崎:泉さんは誰かをお手本にしたということはあるのですか?
泉:僕はそういった薫陶を受けていなくて…。最初、大学の知人が演劇をやっていて、男役がいないと言われ「じゃあ、僕がいきまーす」と軽い感じで演劇を始めました。そのあと一度演劇やめようと思った時期もあったんですが、それでも続けていたので、だったらしっかりやってみようと少しずつ勉強して今に至る感じです。いろんな人の芝居を観て「この演出が面白いから真似してみよう」とか、そういうことで試行錯誤してきました。だから僕、関西小劇場界の「ベスト・オブ・中途半端」と言われているんですよ(笑)。
岩崎:逆に言うと、同世代で、山本さんのように実際に出会いがあって、というケースは少ないのかもしれませんね。だからかな、泉さんは人の話をよく聞いてくれます(笑)。僕、演出はまず受け入れないと何も始まらないと思うんです。俳優含め全てのスタッフワークを上手くパイプで繋いでいければいいわけです。泉さんはそっちのタイプですね。
泉:調整するのが得意だと自分でも思っています。

 

■アイホールの空間について

岩崎:最後に、アイホールの空間でどんなことをやろうとお考えか、お聞かせください。
泉:アイホールは密閉されたボックスのような空間だと思います。なので、野田青年の脳内の状況を、空間ごとに変えていくようなことを試みたいと考えています。観客の視点は一点に集中するけど、それこそVRのように空間はグルグル変わっていく、そんな体験をしていただけたらと思います。
山本:一点に集中させることは僕も考えています。二作品でセットも照明もある程度変える予定ですが、アイホールが正方形の空間で、一筋の光がすごく映える劇場だと思うので、それを効果的に使いたいと思っています。
岩崎:コトリ会議のシアタートークには作家ご本人が来られますね。
山本:そうですね。照明はいまだに鈴江さんから受けた影響が強いので。
岩崎:鈴江さんはなんでも手作業で全部やるという思想ですよね。
山本:そうなんです。だから、もうかなり挑戦です。当たって砕けようと思っています。
岩崎:お二人の挑戦、楽しみにしています。

(平成30年10月8日@アイホール)

 

平成30年度現代演劇レトロスペクティヴ

■コトリ会議『髪をかきあげる』『ともだちが来た』
作:鈴江俊郎 演出:山本正典
11月15日(木)~18日(日)
公演詳細

■baghdad café『野獣降臨』
作:野田秀樹 演出:泉寛介
12月22日(土)~24日(月・休)
公演詳細

青年団『ソウル市民』・『ソウル市民1919』
平田オリザインタビュー

AI・HALL共催公演として2018年11月22日(木)~26日(月)に、青年団『ソウル市民』・『ソウル市民1919』を上演します。アイホールでは『ソウル市民』が3度目、『ソウル市民1919』が2度目の上演となります。 青年団主宰であり、作・演出の平田オリザさんに、作品のことや豊岡市への劇団移転、話題となっている演劇を学べる専門職大学の開学についてなどいろいろとお話いただきました。

 

■『ソウル市民』初演について

  『ソウル市民』の初演は、1989年なので、約30年前、僕が26歳の時に書いた作品です。大学を出た1987年くらいから「現代口語演劇」の実験を続けてきて、理論的には新しいものを発見したとは思っていましたが、その価値については自分でもよく分かっていませんでした。しかし、『ソウル市民』を書き上げて、この方法論は「こういう作品を書くためにあったんだ」と思うくらい初めて理論と実践がマッチしたと感じました。戯曲を書き上げた瞬間に「自分はこれで日本演劇史に名を残したな」と思ったほどです。しかし、初演の時は、思ったより観客が入らず、アゴラ劇場では、600人くらいの動員だったと記憶しています。大半のお客さんは、舞台上で何が起こっているのか分からなかったかもしれませんが、一部の方はとても評価をしてくださいました。例えば、シナリオライターのじんのひろあきさんは、この作品にインスパイアされて映画『櫻の園』のシナリオを書き、日本アカデミー賞の脚本賞を受賞しています。でも、今のようにインターネットのある時代ではないので、「何か変わった作品があるらしいよ」と一部の演劇ファンの間で話題になる程度で、結局、劇団もしばらく鳴かず飛ばずでした。ただ、「現代口語演劇」の記念碑的な作品となったことには違いないと思っています。

 

■作品について

『ソウル市民』(2006)©︎T.Aoki

 『ソウル市民』は、日本が朝鮮を完全植民地支配する前年の1909年に、朝鮮に暮らす日本人の文房具屋さん一家の日常風景を描いている作品です。

日本で植民地がテーマになっている作品は、ヨーロッパに比べると少ないです。ヨーロッパでは例えば、A・カミュの『異邦人』や、M・デュラスの『愛人』など、伝統的に植民地を背景にした文学があります。幸いにと言っていいでしょうが、日本の植民地支配は、台湾が50年、韓国が35年で終わっていて、ヨーロッパほどに長くありません。そのため、植民地がテーマの作品は多くないのだと思います。ただ、日本が植民地時代のことを文学・戯曲などで総括できていないことに対しての問題意識はずっとあり、いつか自分でテーマにして書きたいと思っていました。今でもそうですが、戦争モノにしろ植民地モノにしろ、悪い軍人や商人、政治家が出てきて、庶民が虐げられて、というような弱者の視点で描かれたものが非常に多いです。しかし『ソウル市民』では支配層の日常を描きました。「ポスト・コロニアリズム」という語が流通していない時代に、植民地支配の構造を描くのはめずらしく画期的だったのではと思います。

劇作家の太田省吾さんがこの作品を「ちょっと別のレベルのリアリズム」と言ってくれました。おそらく、当時の普通の人々の意識の流れを忠実に再現しようとした時に、それまでとは違う次元のリアリズム演劇の手法が必要だったのだと思います。例えれば、虫眼鏡ではなく、顕微鏡で見るような克明なリアルさです。それが、植民地支配が持っている悪い軍人や政治家が出てくるような分かりやすい構図ではなく、全ての人々が植民地支配に加担していく構図をあぶり出したのだと思います。

一方で、この作品はオリジナリティだけではありません。題名は、アイルランドの作家J・ジョイスの『ダブリン市民(原題:ダブリナーズ)』から取りました。もう一つの背景には僕が大好きなトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』や、それに影響を受けて書かれた北杜夫さんの『楡家の人びと』という長編小説があります。2編とも、ある一家の衰退していく様子を描いた作品ですが、いつか自分もそのような作品を創りたいと思っていました。結果、『ソウル市民』は、『ダブリン市民』のタイトルと手法を借りて、長大な植民地支配下の一つの家族の姿を描く作品となりました。

『ソウル市民』の10年後である1919年に、三・一独立運動という植民地支配下最大の抵抗運動が起こりました。『ソウル市民1919』は、その騒乱の午前中のやはり同じ日本人一家を描いた作品です。彼らは家の外で起こりつつあることに、全く気付かずにのんきに暮らしてます。1作目よりもコミカルな部分も増えて滑稽で音楽も多くて、表面上ものすごく楽しい劇です。ただ、3月1日というのは、韓国では今でも非常に大事な祝日になるような重たい日で、その重さと日本人の滑稽さを対比して描いています。当時からこんなに茶化していいのかなと思っていたのですが、韓国で上演された時は比較的好評で、ある韓国の演出家からは「これは韓国の作家が書くべきだった」と言われたほどです。

2016年には、ソウルとパリで両作品を上演し大変好評を博しました。今回は、その時のキャストとほぼ同じ座組で国内巡演を行います。

『ソウル市民』は他にも1929年を描いた『ソウル市民 昭和望郷編』と1939年を舞台にした『ソウル市民1939・恋愛二重奏』という続編があります。またブラジルの日系移民を描いた『サンパウロ市民』という作品も書いたので、全体では五部作になっています。

 

■植民地支配について

『ソウル市民1919』(2000)©︎T.Aoki

 『ソウル市民』の初演時に、たくさんの資料にあたりましたが、1909年の時点で、いちばん植民地支配に抵抗していたのは伊藤博文でした。彼はとても臆病な人で、下手すればすぐにでもイギリスやフランスに植民地支配されそうな貧弱な国だった日本が、そんな大国になるわけがないということを良く知っていたのです。一方で、日本の中でも最も植民地支配に賛成していたのは庶民です。理由は非常に単純で、日露戦争に勝って日本も一等国になったのだから、植民地のひとつや二つ持って当たり前だという世論の雰囲気があったからです。日比谷の焼き討ち事件などもあり政府は庶民の増大する力を恐れていたので、それが社会主義にいくよりかは、植民地支配に捌け口を求めたのだと思います。つまり、植民地支配には庶民が加担しているというのが僕の歴史観です。

 『ソウル市民』という言葉は厳密にいうとおかしいのではないかと韓国の学者からクレームがついたことがあります。確かに幾つも問題があって、当時の首都は「ソウル」ではなく厳密には「漢城(ハンソン)」という名前でした。そのあと1910年からは、日本の植民地支配下で「京城(ケイジョウ)」という名前になりました。「ソウル」という名前になったのは第二次世界大戦後です。この言葉は「都」という意味で漢字表記はありません。ただ、ここに住んでいる日本人は健全な自己決定能力のある人々であり、何かに抑圧・強制されて植民地支配に嫌々ながら加担したのではなく、自立した市民のひとりひとりとして植民地支配を主体的に選びました。市民というのは決して正しいことばかりをするのではなくて、責任のある自己という意味から、僕は『ソウル市民』という言葉を選択しました。そして、そのような市民の在り方は、1909年も今も変わっていないのではないかと思います。

 海外から日本の植民地支配で一つだけ理解されないのは、同程度の文化的な背景を持っていて、特に文化に関して言えば韓国や中国の方が日本より歴史的には上だったのに、なぜ日本が植民地支配できたのかということでした。ある一瞬、日本の近代化が先に進んで強い軍事力を持ってしまったがために、逆に植民地支配をしたというこの構図は特殊でなかなか理解されません。海外公演時は現地の大学などで植民地支配についてのレクチャーをするのですが、日本の植民地事情の特殊さを説明することは本当に難しいです。しかし、ひとつひとつ言葉を選んで話さないとならないので、そういう緊張感の中で上演が出来るというのは、アーティストとしては有難いことです。

 

■韓国との関係、そして日本と韓国の関係について

先日、日本経済新聞さんから「平成の30年」という特集の中で「平成の日韓関係」というテーマでインタビューをお受けしたのですが、「ジェットコースターに乗っているように良くなったり、悪くなったりが激しい30年だった」と答えました。確かに今の政権が抑圧的であることは間違いないですが、30年前がそんなに良かったかというとそうではないと思います。リクルート事件などの真最中で、総理大臣が毎年のように変わって、政治はグダグダでしたから。

僕は、1984年~85年に韓国に留学していましたが、当時は全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領による軍事独裁政権で大変でした。僕が住んでいた外国人用の寮はKCIA(韓国中央情報部)から盗聴されていたり、手紙が全部開封されて、べたべたの糊付けで戻ってきたりしました。ファシズムというのは、私たちの首を真綿で絞めるようにゆっくりと絞めていきますから、その体験はやはり後の作品づくりに大きく影響しました。

 また3年前は、韓国は朴槿恵(パク・クネ)政権で、文化人ブラックリストが発見され、その中で、外国人の中で唯一、僕の名前が書かれていました。たまたまですが、その時に『新・冒険王』という作品で韓国の助成金に申請を出したのですが取れませんでした。後からブラックリストに名前が載っていたからだと判明しましたが、なぜ名前が載ったのか、はっきりした理由はいまだに分かりません。そういう時代から考えると、今の政権は非常に現代演劇に理解があるし、友人たちが政権の中枢にいるので、ここから先、日韓の仕事はやりやすくなると思います。

 日本の高校生なんかに聞くと、韓国大好きという女の子たちがものすごくいっぱいいます。そういう意味では、日韓関係は僕が留学していた頃から比べたら夢のように良くなったと思います。今の統計上は一年間で韓国人の7人~8人に一人、約700万人が日本に来ていて、韓国に行く日本人は200万人くらい。日本人の方が比率としては圧倒的に少ないですが、それでも、それだけ交流があるということです。昔は日本の歌謡曲は向こうでは全部禁止されていたほどですが、今は歌や映画・ドラマなど文化的な交流も盛んになっています。

ただ、日韓ではあまりにも歴史教育の差があります。「1919年の3月1日に韓国で何がありましたか」と聞かれて、僕が「おそらく答えられる大学生は1%もいないんじゃないか」と答えると、韓国の新聞記者は、みんなショックを受けます。また例えば、日本と韓国の子がすごく仲良くなって、たまたま3月1日に日本の子が韓国に行って、休日で全部銀行とか閉まっていて、「え、なんで今日休みなの?」と言ったら、やはり韓国の子はショックを受けるでしょう。いくら友達になっていても、「いや、これはお前らのせいだろ」と韓国人は感じると思います。ヨーロッパでは、大学生以上の人には最低限の常識として被支配者側がどのような発言を不快に思うかを教えます。それが外交であり、国際関係です。このようなことを芸術で教えられる部分はすごく限られているので、教育でもやっていくしかないと思います。

 

■豊岡市で開学する大学と国際演劇祭について

報道等にもあったと思いますが、兵庫県の豊岡市に2021年4月開学を目指して、観光とパフォーミングアーツを主軸にした兵庫県立の専門職大学を開学する予定で、現在、兵庫県庁の方で準備を進めています。認可が下りれば、国内初の演劇とダンスを本格的に学べる国公立大学ということになります。私たち演劇界の悲願でもありましたが、半歩前進ということになると思います。学期を完全クォーター制にしたり、短期留学や600時間の実地研修を課したりと様々な新しい試みを行う予定です。私が学長就任予定となっています。

また、大学開学に先駆けて、来年の9月に豊岡国際演劇祭を開催します。フランスのアヴィニヨン国際演劇祭を参考にし、豊岡市に新たに出来る劇場や野外で、海外からの招待公演や、フリンジ公演を行います。専門職大学が始まれば、学生ボランティアにも参加してもらい、単位や多少のアルバイト料をもらいながら、アートマネジメントを勉強できる仕組みを作ります。

 

■質疑応答

Q:この作品で、東京での演劇製作は最後になるのでしょうか。

A:いいえ。僕自身は来年移住予定ですが、劇団の移転は再来年を予定しています。豊岡市の中核の市街地に豊岡駅があり、その南側には江原駅という特急の停まる駅があります。江原駅の近くには、元の日高町の役場だった築100年くらいの非常に雰囲気のある建物がありまして、そこを2019年の9月着工、2020年3月完成予定で劇場に改装する予定です。そちらが青年団の本拠地となります。その翌年度には、酒蔵を劇場に作り替える予定で、他にももう一つ予定地があります。つまり、江原駅から3分~5分圏内のところに合計3つの劇場をつくる予定です。ということで、本格的な劇団の移住は劇場が完成する2020年の4月以降になります。ただ、来年の大きな演目2つは、どちらも城崎国際アートセンターで製作するので、そういう意味では東京での製作は、徐々に減っていくという言い方もできるかもしれません。

 

Q:発信拠点自体を地方に移されるということですが、劇団が地方を拠点にできるような環境は各地で出来つつあるのでしょうか?

A:それは、分からないです。ただ、これからのアートは、地方において一種のイメージ戦略として使われるようになると思います。例えば、豊岡市にとっては、平田オリザや青年団が移住した街というイメージは大事であるようです。また、城崎のインバウンド客が5年間で40倍になった時期と、城崎国際アートセンターが成功した時期は重なっています。彼らは決してアートセンターが目的で来たわけではないと思いますが、結果的に国際的なイメージがつき、国際化のシンボルとしてうまくいきました。このように地方がアートの人材や劇団を招聘する予算のほとんどは、人口減少対策やIターン・Jターン政策の切り札として町をイメージアップするための地方創生予算から出ています。教育政策も同様で、教育と文化がしっかりしていないところにIターン・Jターン者は来ません。そこに気が付き始めた自治体と、いまだに工業団地を作れば若者は戻ってくるだろうという考えだけの自治体とでは、今後20年~30年後に大きな差がつくだろうと思っていますし、現実にそういった流れになっています。その流れの中で青年団以外の劇団が地方を拠点にする環境も出来ていくのかもしれません。     


 

ハイバイ 『て』 岩井秀人 インタビュー

 

AI・HALL共催公演として2018年9月22日(土)~23日(日)に、ハイバイ『』を上演します。アイホールでの本作の上演は2度目ですが、今回はハイバイ結成15周年の記念作品として登場します。

作・演出の岩井秀人さんに、作品についてお話いただきました。

 

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■作品について

⒞平岩享

旗揚げから5年後、2008年初演の作品です。書きたい題材がなく悩んでいて思いついたのが、僕の家族のエピソードを台本にすることでした。僕の家族は暴力的な父親に抑圧されていて、それが嫌で兄弟みんなが家を離れていました。そんなバラバラな家族が、祖母の認知症の発症をきっかけに再結成しようとして、結果、前よりバラバラになってしまった。その顛末を描いたのが『て』という作品です。

タイトルを漢字にしていないのは、ただ単に身体の一部としてだけの意味になるのが嫌だったからです。ひらがなだと「何かと何かをつなぐ」という抽象的な意味になる気がしました。あと台本を書く前から祖母役の若い女優がデッサン用の手の模型を持つことは決まっていて、それもイメージの元です。

 

■家族について

作品のモチーフの一人である父が亡くなったので、家族の修復のようなモノは出来ていませんが、悪くもなっていないと思います。ひとつのコミュニティに悪役がいると周りは団結するように、父以外の家族は仲がいいんです。

いままでも記者さんから「お父様のことを作品で書いたり、岩井さん自身も父親になったり、そうした過程を経てお父様のことを許していってるのですね」と言われたことがありますが、その逆で「より許さなくていいんだ」と思うようになりました。世の中には、「救われるためには怒りから解き放たれなくてはいけない」という強迫観念があるようですが、僕は「父親を許さないことで、同じ轍を踏まない」と反面教師にしています。

この話の中で特に書きたかったのは、認知症になった祖母に対する長男のひどいあたり方でした。当時、兄は記憶が無くなりつつある祖母に対して「なんで忘れるんだ?」となじるような言い方で追いつめていました。僕はそんな兄を悪魔のように感じていて、その姿を面白おかしく描こうと思っていたのです。でも母は、兄と祖母の関係を全然違う風に捉えていました。兄は祖母に、働いていた母の代わりに面倒を見てもらっていて、兄弟でいちばん祖母と近い関係にあったんですね。祖母の元気だった姿をよく知っているので、現状を受け入れられずにキツイことを言ってしまっていました。そんな僕と母の捉え方の違いを表すために、同じ場面を1周目は僕、2周目は母の視点で繰り返すという構成にしました。

 この作品は僕にとって箱庭療法的な作品です。母の視点で台本を書き、母を演じることで、自分の視点でしか見ていなかった問題を他者の目線から検証したので、まるで自分のセラピーのようでした。

 

■再演について

ハイバイに再演が多いのは、一度お客さんに面白がられた作品をブラッシュアップしていくことを大切に思っているからです。僕は演劇の初演は上手くいってもいかなくてもそれは〈事故〉だと思っています。作る側はあれこれ予測しても、全然お客さんの反応は違って、びっくりして本番を終えるものです。だから僕の中で「初演」は〈プレビュー公演〉であり、「初演の経験をもとに練り直して再度上演するもの」を〈本当の初演〉と捉えています。今回は4回目の上演なので、もちろん以前の上演から変化する部分はありますが、かなり完成度は高くなるでしょう。

不思議なのは、何度も再演すると、作品が自分のものではない感覚になっていくことです。上演の度にいろいろな人の人生を聞かされたからかもしれません。例えば、以前、上演後にお客さんから「先日うちも父の葬式があって」という話をされたのですが、それって実際の公演内容とは関係ないんですよね。でもそのお客さんの中で、自分の話と作品とがリンクしたのだと思います。エピソードがぴったり当てはまらなくても、見ている間に自分の人生を思い出してくれるものなのだと知って僕は驚きました。

 

■母役の浅野和之さんについて

浅野和之さんはハイバイに初めて出演してくださいます。“Mr.エンゲキ”みたいな人で、読売演劇大賞や紀伊国屋演劇賞などの大きな賞も受賞しながら、コミカルでちょっとおふざけの入ったような役までやれる振り幅の大きい俳優なので、舞台で初めて見た時から、機会があればぜひ出てもらいたいと考えていました。母役はコメディからシリアスまで振り幅が大きくあるので、難しいことを嬉々としてやってくれる俳優さんがいいと思っていて、引き受けてくださって感謝しています。

 

■「日常」を題材に

僕が戯曲を書き始めたのは、〈日常〉をベースにした岩松了さんと平田オリザさんのお芝居を観て演劇の意味を再認識したことがきっかけです。なんてことない日常に隠れる価値など、些細だけど大事なことに気づかせてもらいました。そして、とても面白かった。お客さんに、お二人の作品で感じたようなことを、僕の作品でも感じてもらえたら良いなと、その道で生きていこうと思ったんです。『て』はまさしく日常に基づいた作品で、劇団のその後の方向性を決められた上に出世作にもなったので、とても思い入れがあります。

 

 

■演劇についての思い

僕は演劇を“悪ふざけ”の一環だと思っていて、俳優は役の人物にはなれないというのが、基本だと考えています。それは、ある演劇エッセイストが言っていた「演劇の不可能性」ということに通じていると思います。例えば、この作品では男性が母役を演じたり、祖母役を若い女性が演じていたりしますが、演劇はそんな「不可能」に挑戦しているからこそ面白いメディアなのではないでしょうか。

僕自身、実は演劇を観ることは苦手で、演劇嫌いな方の気持ちも分かります。嫌われる演劇って高尚でワケがわからないものと、「みんな全力で頑張っています」感を殊更に主張してくるものとに分かれる気がして、それらが様々な人たちから観劇の機会を剥奪しているのかもしれません。ハイバイはたぶんそのどちらでもないので、演劇に苦手意識を持っている人には、特に観てほしいです!

 

2018年7月 大阪市内にて

 

 

 

東京デスロック+第12言語演劇スタジオ『가모메 カルメギ』
多田淳之介インタビュー

AI・HALL自主企画として2018年7月20日(金)~22日(日)に、東京デスロック+第12言語演劇スタジオ『가모메 カルメギ』の上演を行います。演出を担当する東京デスロック主宰の多田淳之介さんに、作品についてお話いただきました。


■関西公演について
東京デスロックの公演は、関西では京都でよく上演していましたが、伊丹は初めてです。兵庫県では2009年に神戸アートビレッジセンターで公演をして以来、久々の劇団公演になります。

 

■東京デスロックと第12言語演劇スタジオの交流
劇団同士の交流以前に僕自身は2008年から韓国での活動を始めました。きっかけは、僕が演出部として所属している青年団の平田オリザさんに「アジアの演出家が韓国に集まって作品を作るという演劇フェスティバルがあるから、演出家を紹介してほしい」という要望があったからです。そして、劇団内で企画書のコンペをして、僕が行くことに決まりました。
僕にとっては初めての海外製作だったので、一人で行かせるのは不安だということもあり、そこで今回組んでいるソン・ギウンさんがアテンドについてくれたんです。彼は青年団とは元々付き合いのある方で日本語がペラペラで、青年団の公演時やDVDの韓国語字幕も作ってくれたりしていました。私より2歳年上で世代が近く、お互いが国内の演劇状況に不満を感じ、いろいろ工夫をして演劇活動をしていこうと考えている共通点があり、話していてウマが合いました。また、今までの日韓合作公演は期間が短く継続性をもたずお互いが出会ってすぐお終いというような、打上花火的な進め方についても疑問がありました。だから、僕らは毎年共作をやろうという話をしまして、2009年から東京デスロックと第12言語演劇スタジオの劇団同士の活動が始まりました。最初は、まず僕が日本で作ったものを韓国語に翻訳して上演することから始めました。ソン・ギウンさんはプロデューサー的なことや、ドラマトゥルグ的なこと、俳優を集めてキャスティングを一緒にしたりしてくれていました。

 

■『가모메 カルメギ』誕生のきっかけと再演

⒞石川夕子

『가모메 カルメギ』は2013年に韓国で初演、2014年に日本で再演したので、今回は2度目の再演となります。
初演を作ることになったのは、ソウルにあるドゥサン・アートセンターという民間の劇場から僕とソン・ギウンさんとで共作をしませんかという提案があったことがきっかけです。ソンさんは、いろいろと面白い戯曲を書いていて、朝鮮が日本の植民地時代だった頃の台本を書くこともかなり評価をされています。留学経験もあったので、自分のアイデンティティと日本の関係に興味があり、韓国における反日的な感情についても、とても冷静に考えられる人でした。
原作がチェーホフの『かもめ』になったアイディアはソン・ギウンさんからです。日韓を舞台にしたいということで、つまり翻案です。韓国では、翻案上演は結構スタンダードで、原作と翻案とを半々くらいの割合で上演するので、海外のものは「翻案しようよ」となりやすいんです。この作品も、筋としてはかなり原作に忠実で、最初台本が出来上がった時にはあまりにもそのまんまじゃないかというのが問題になったくらいです(笑)。
日本での再演時には、〈朝鮮半島から見た東京〉だとか、〈朝鮮の田舎に東京から日本人が来る〉だとかの設定になると、やっぱりその物語が自分たちの話のように見えてきて、これまでのどの上演よりも身近に感じることが出来たという感想があり、僕も「なるほど!」と思いました。
この作品は初演時に、韓国の東亜新聞という保守系の新聞社が主催している「東亜演劇賞」で作品賞・演出賞・視聴覚デザイン賞をとりました。韓国の演劇賞としては一番大きな賞で50 年の賞歴で外国人の受賞は初めてらしいです。
今回の再演は、三重県文化会館から、「再演してほしい」と言われたことがきっかけです。もう一回やりたいと思っていた作品でしたが、ただうちの劇団でやりたいと思っても、助成金などを取らないとなかなかこの規模の作品はできないんです。前回の国内上演は劇団主催でやったので、本当に信じられない金額になってしまい、下手したら首を括らないといけない可能性もあったんですが、幸い助成金が取れました。日本の助成の場合はかなりギリギリにならないと結果が出ないし、やることが決まってから結果が出るみたいなところがあるので、劇団一同かなりヒヤヒヤして、「この助成金が取れなかったら、もうみんな演劇続けられないよ」という感じになります。今回は、地域創造の助成もいただいてのツアーとなりました。
僕自身は、再演は繰り返すべきだと思っています。再演の度に作品の見え方と、その時のお客さんとの関係性が変わっていくのが面白いんです。だから、上演を重ねると演出的にも作品の強度が増すというのが再演の理由としてありますし、その度に各時代を考えることが作品の一つの基準になっていくと思います。また、演劇は一気に何万人も見られないので、少しでも多くの人に見てもらいたいというのも理由の一つです。

 

■作品の特徴
台本は原作にかなり忠実に作られているんですけども、演出・美術・音響等は、いろいろ工夫しています。舞台美術に関しては、瓦礫っぽい感じのごみの山みたいに見えますが1930年代当時の朝鮮のものから現代の韓国と日本のものが転がっているというイメージです。時代の蓄積という風に見えるようにもしています。

(c)DoosanArtCenter

演出の特徴としては、俳優が一方向にしか登退場しないというルールを決めています。上手から退場して下手からただいまと言って帰ってくるみたいな感じですね。そうすることによって時間の流れを舞台上に作れたらいいなと思っています。客席は舞台を両脇から挟む対面型の座席になっていて、これは日韓のお互いが片側からしか見えないというようなイメージです。あとテレビモニターが舞台上の四隅にあるのは、日韓共にお互いの文化をテレビで観ることが多いので、「メディアを通して見ている」というアイディアです。
音楽に関しては、僕が歌謡曲やJ‐POPを使うのが好きで、また頻繁に韓国に通っているうちにK‐POPも好きになったので、それらを使います。登場人物たちは1930年代の話をやっているんですけども、突然K-POPや「Perfume」がかかったりするという演出もあります。
出演する俳優たちは、2014年の時と同じメンバーで上演します。クオリティが担保され、より良くなると信じてます(笑)。
1930年代の朝鮮は植民地政策の一環で日本語を強制された時代だったので、今回、韓国の俳優は日本語の台詞をたくさん喋っています。主人公のお母さん役のソン・ヨジンさんは、特にたくさん日本語を喋らなきゃいけなくて、猛練習しました。外国語で演技するのってものすごく難しいんですよね。自分がどう喋っているのか、相手にどう伝わるのかが分からないんです。日本語の指導には、現在は韓国で暮らしている在日の方などに協力してもらいました。
この公演のタイトルが『가모메 カルメギ』となっていて、このハングルで書かれている部分が「カ・モ・メ」と読むんですけど、「カルメギ」というのは韓国語で「かもめ」という意味なんです。なので、韓国人がこのハングルを読むと「カ・モ・メって書いてあるけど、カ・モ・メってなんだ? カタカナの方は読めないし」という風になりますし、一方、日本人が読むと、「カルメギってなんだ? ハングルは読めないし」という風になる。両方の言語を知っている人には伝わるという仕組みです。意地悪ではないんですけど、頓智の利いたタイトルになっています。また「片側からだけだとよく分からない」という、我々の思いもこもっています。

 

■日韓の歴史と共作について
僕も初めて韓国に行くときは歴史の話はするなと言われていて、その後、韓国の文化を多少なりとも理解し、友達と歴史の話もしていたので、そろそろ植民地時代に触れた作品を作れるというタイミングになりました。ただ、実際踏み込んでみると大変なことは多く、初演の時、うちの劇団の俳優はもちろん初めてなので、「なんか余計なことを言っちゃいけないんじゃないか」とか気を使いすぎるところがありました。だから稽古中に双方の歴史に関するいろいろな映像を見てディスカッションも結構やりました。日帝朝鮮時代の朝鮮人が作った日本語映画も見ました。今見ると驚くほど日本語が上手いし、全然朝鮮人だと分からないし、しかも俳優なので日本語で〈演技〉もしているんです。とても上手くてびっくりしました。また、青年団の『ソウル市民』という作品をみんなで見て感想をシェアしたりしました。
そのようなやり取りを通じて俳優の間ではコンセンサスは取れたのですが、ただ韓国社会は政治的なことに敏感で、特に日韓の関係に関しては、私たちの「つもり」とは違うことに受け取られて、炎上してしまう危険性が非常に高いです。特に「親日」だというレッテルを貼られると一発で終わりというところがあるので、そうならないための工夫をすごくしました。例えば、作品の中で日の丸国旗を舞台セットの片隅に置いていたんですね。すると韓国人のメンバーから「これはまずい。ただ置いてあると、日本人が朝鮮半島に日の丸を掲げに来た、みたいなことを言いたがる人がいる」と言われました。では、どうしようかと相談して、軍国主義の象徴として使う演出に変えました。
この作品では、日本人が極端に悪者に描かれるということはありませんが、悪意のない差別というのがすごくポイントだと思っています。日本人が朝鮮人を蹴飛ばすような分かりやすい差別の描写はなく、でも何気ない一言や、やり取りにうっすら差別的なものが見えてくるように演出しています。
考えてみると、日帝朝鮮時代から現在はまだ100年も経っておらず、それにしては、お互いの歴史のことを知らないんだなということを作りながら感じました。ソン・ギウンさんは今はもう40代ですけども彼が物心ついた時にはまだ軍事政権で民主化してなかった時代で、22時以降に外出すると捕まったらしいです。そのように自分たちが知らなかったことも含めて、上演では日韓の歴史を字幕で辿ります。
前の上演から4年ぶりなんですけども、その間にも韓国では様々な出来事がありまして、船が沈んだり、大統領が辞めさせられたり、そして最近もいろいろなことが起き続けています。日本でも朝鮮半島で今何が起きているかということについてアンテナが向いてきている時期なので、すごくいいタイミングの上演になったと思っています。
日韓の演劇や文化の交流は増しているし、もうおそらく政治では止められないレベルまで来ています。僕たちがこの作品を作れたというのも、交流があってこそだと思います。なので、韓国の作品も日本でもっと上演されてほしいし、一緒に作って両方で上演するということも増えてほしいなと思っています。6月から再演の稽古で韓国に行ってくるので、向こうの実際の雰囲気を感じつつ、今回の上演に向けてブラッシュアップ出来たらなと考えています。

 

■質疑応答

 

Q:ここは変えようという新たな演出プランなどありましたらお聞かせください。

A音楽の選曲が一番難しいなと思っています。音楽はやはりタイムスタンプの要素が強いので。
前回から4年経って、楽曲が新しい時代のものになっていくタイミングなどは、変えざるを得ないかなとは思っています。また、ラストの演出は多少変わるのではないのかなとは思います。

 

Q:字幕は、韓国公演の時には、日本語の部分が韓国語字幕に、日本公演の時には逆になったのでしょうか。

Aはい、そうなりました。字幕上演って演劇の課題ではあるのですが、この作品では舞台の上の方に梁があって、そこに字幕が出るんですけども、舞台の真ん中のタンスに上がって俳優が高い位置になり、梁が低い位置にあるので、俳優と字幕がなるべく近くになるように工夫をしてあります。また韓国語なのに韓国人が聞いても分からないほどものすごい方言を使っているシーンがあり、この作品の地域設定が朝鮮半島の北の方の田舎なので、津軽弁の字幕にして出しました。津軽弁を文字で見ると言葉の意味は分からないですが、なかなか新鮮です(笑)。

 

Q:「日本人の作家」という登場人物を出すのは、日本と韓国の差別・被差別の感覚を際立たせるためですか?

A日本人が来て彼女を取られるみたいなストーリーは韓国人としては見慣れているようで、あんまり逆撫でするような感じではないようです。だから、主人公の悩みというのも彼を取り巻く世界や戦争、それらにプラスして母親との関係であったり、自分に才能があるかないかだったりとか、差別のことだけが全てではないという感じになっていると思います。むしろ私たちの方が「差別的な日本人」という設定を見慣れておらず、刺激が強いかもしれないですね。
僕らは歴史を取り扱いますけど、日韓のためだけにやっているわけではありません。歴史問題を解決するのが仕事ではなく、歴史から普遍的・世界的な財産になるようなものを作ろうと思っています。韓国内でも「私と歴史」を次にどう伝えていくかという時に、植民地とはなんぞやということを伝えていかなければならないんですが、直接被害にあっている方がまだご存命なのでこういう話もちょっと危険なんですよね。日本では原爆がそうですよね。世界的には、どちらかというと原爆はやっぱり落としてよかったという意見がありますが、それを被爆者の人には絶対言えないですよね。そういう感情的な部分は難しいですが、今40代の我々が次の世代にどう伝えるのかという責任は感じています。

 

Q:東京デスロックの都内での公演は2013年以降はやってないとお聞きしていますが、2020年まではやらないということでしょうか。

Aはい、そうです。絶対やらないです。東京オリンピックがなくなるんなら、やります。誰かが言わないと。へそ曲がりというだけなんですけど。

(2018年5月 大阪市内にて)


東京デスロック+第12言語演劇スタジオ
『가모메  カルメギ』

 

原作/アントン・チェーホフ『かもめ』
脚本・演出協力/ソン・ギウン
演出/多田淳之介

 

平成30年7月20日(金)  19:00
    7月21日(土) 14:00
    7月22日(日) 14:00
 公演詳細

平成30年度 次世代応援企画break a leg 参加団体インタビュー




AI・HALL共催事業として、今年度も「次世代応援企画break a leg」を開催いたします。

参加する2劇団よりそれぞれ代表のみなさんと、アイホールディレクター岩崎正裕より、本企画および各公演についてお話いただきました。


■企画趣旨について■


岩崎:次世代応援企画break a legは、2012年度から開催しており、今回で7回目になります。昨今の関西では、経済的に厳しい状況にある劇団が多く、カフェ公演やアトリエ公演が流行っています。そうしたなか、アイホールを使用する若手の団体が少ないのが現状です。そこで、若い表現者に門戸を開くために「break a leg」を立ちあげました。近年は名古屋、東京などの関西圏以外の団体の登場も多かったのですが、今年度は久しぶりに関西にルーツを持つ二団体が並びます。今回の応募団体の中で、「少女都市」と「うんなま」は頭一つ抜けている印象がありました。他の団体が駄目だったのではなく、この二劇団の成立度が高く、期待ができると考え、今回、選出しました。


■少女都市「光の祭典」■

『光の祭典』初演より 撮影:松本真依

本未織(以下、葭本):劇団名である「少女都市」には、二つの由来があります。一つは、東京と兵庫の二都市で活動していること、また作品の題材として東京と他都市の二都市を描いていることです。私は兵庫県出身で東京でも生活をしています。西と東は似た部分もありますが、生き方や風習や考え方が全然違います。特に生まれも育ちも東京の人は、地方のことがイメージできないことが多いと思います。だから、作品のなかで二都市を扱い、地方はきちんと存在して、息づいているということを伝えていきたいと思っています。

そして少女都市のもう一つの由来は、私たちは女優の肉体と言語を通して「抑圧のない自由な世界の創造」を目指している、ということです。自らの欲望・立場・利益のために物理的・言語的暴力によって、人間の尊厳や、精神・行動の自由を奪う。そのような抑圧は特に弱い人に向けられます。その襲い来る抑圧を、女優の情念でとらえる。舞台上で言語と肉体をもって放つ。観客の創造力を借りて、役者と観客が劇場で相互の体験として、抑圧のない自由な世界を創造する。そのことを目標に舞台を創っています。

今回上演する『光の祭典』は、2017年に初演したものです。物語は、カップルの男の方が消えてしまうところから始まります。残された女がその謎を追っていきながら、どうすれば誰かを傷つけることなく自分の傷を癒すことができるのか、憎しみと暴力の連鎖を断ち切ることができるのか、考えはじめるさまを描いた作品です。

今回の再演に向けて、台詞の大幅な変更は行いませんが、演出はかなり変えようと思っています。また、初演は私が主人公を演じましたが、今回は別の女優が演じます。新しいメンバーも加わり、昨年より若い俳優たちが多くなったので、また、新しい『光の祭典』をご覧いただけるかと思います。

◇「喪失」と復活を描く◇

葭本未織さん

葭本:私は1993年1月17日生まれで、二歳の誕生日に「阪神淡路大震災」があり、兵庫県芦屋市で被災しました。その時はまだ幼すぎて揺れの記憶はないんですが、仮設住宅で生活していたころの記憶がすごく鮮明で、初めて観た映画は避難所の慰問で来た『E・T』でした。小学校に入学すると、毎年、震災の日に慰霊式典を行っていました。その準備として、折り鶴を折ったり、歌の練習をしたり、どんな被害があったのかを学んだり、毎年必ず震災について考える機会がありました。震災の日が私の誕生日でもあるので、毎年、慰霊式典の準備中に「(自分が生きていることが)すごく不思議だな」「生きるってどういうことなんだろう」ということをすごく考えるようになりました。

私の両親は震災の前年の12月に家を買って、翌月に地震で全壊しました。当時は法律も整備されていなかったので、存在しない家のローンを延々と払い続けなければなりませんでした。他にも、お子さんを揺れから庇いきれず亡くされた方や、死体を見ても何も思えなくなってしまった学校の先生が身近にいました。私は、大きな被害からどうやって立ち直るかが大切な地域に生まれ育ったわけです。でも、宝塚の高校に入学すると、驚くことにみんな震災を知らないんですね。高校を卒業して東京に行くと、それ以上にみんな震災を知らない。だから、「そうか、こうやって忘れられてしまうんだ」と考えこんでしまいました。今回の『光の祭典』は、特に被災経験のある30代後半から40代の女性に観ていただきたいと考えています。そして、もう一度みんなで震災のことを考えたい。「震災の記憶」についてもう一度考える機会にしたいですし、もちろん震災を経験されていない方とも思いを共有したいと思っています。

また、「#Me too」の流れがある今だからこそ観て欲しい作品でもあります。この作品には、レイプが原因でカメラを持てなくなった女流映画監督が主人公として出てきます。どうしようもない暴力を受けてしまった人間が、自分の受けた傷に対し、他の人に同じ痛みを負わせるのではなく、どうやって自分自身で克服して生きていくのかを考える物語です。

フライヤーのキャッチコピーにもある「喪失と復活」がこの作品のテーマで、先の二点とも繋がっています。どうしようもない出来事があったとき、人はどうやって自分自身で克服していくのかを作品を通じて伝えていきたいです。

私は、すべての性暴力を、すべての抑圧を、決して許しません。芸術の名の下に誰かが誰かを抑圧する時代は終わりを告げていて、私たちはその真っただ中にいます。同じ時代を生きる人に見てもらいたいです。

岩崎:お稽古は東京でされるんですか?

葭本:いえ、兵庫です。神戸に東遊園地という、ルミナリエの終点の公園があるのですが、そこに座組全員で行ったりして、稽古場に閉じこもるのではなく、みんなで体験して、みんなで考えながら作品を作っていきたいと思っています。

岩崎:作品のモデルとなった土地でその空気を吸いながら作っていくことになるんですね。


■うんなま「ひなんくんれん」■

『search and destroy』より 撮影:小嶋謙介

繁澤邦明(以下、繁澤):「うんなま」は、もともと「劇団うんこなまず」という劇団名でして、団体名からすでに社会を拒絶してしまっているところがあったんです(笑)。今までの作品も、作りたいものを作って、共感できる人が共感してくれたらいいやっていうスタンスがどこかありました。いわば、「自分たちのための演劇」ですね。そんな中で、今回、「break a leg」に選んでいただけたのはとても光栄で、この機会に、市立の演劇ホールであるアイホールで、共催公演として何をするかを考えました。演劇作品として面白いものを作ることはもちろん、かつ、実用的で実利的というか、社会にとって意味がある演劇とは何だろうかと考え、観て学べる演劇作品として、今回『ひなんくんれん』という新作を発表します。この作品のテーマは大きく二つあり、一つは「誰かのための演劇」、もう一つが「演劇(うんなま)で防災」です。

私自身、兵庫県明石市の出身で、6歳の頃に阪神淡路大震災があり明石で被災しました。ただ私の家自体は幸いそこまで重い被害は受けず、被災後も普通に家で生活しました。水道が出なくて近所の公園に水を汲みに行った思い出があります。2011年の「3.11」の頃は就職活動をしていて、とあるメーカーの面談が終わった後に「地震がありました」という情報をツイッター等のSNSで知りました。大阪の下宿で一人テレビを見ていると、津波で家がどんどん流されていく光景が繰り返し繰り返し放送されている。就職活動で「自分とは何だろう」と考えていた時期にそういった光景を何回も見たことで、「人って一体何が出来るんだろう」と考えさせられました。そういったこともあり、心のどこかには、いつか取り組みたいテーマとして「震災」あるいは「防災」がありました。

また最近、テレビやSNS等で、テロやミサイルは扇動的なまでの扱われ方をしていたと思います。「これからJアラートが鳴ります」とか、「どこどこの国でテロがありました」とか、ショッキングな出来事を、ただひたすらショッキングに、ある種、あっけなく扱っているように感じる。でも、そういった有事のときにどうすべきなのかは、自分自身なんだか分かってないなと思ったんです。簡単な例としては、地震の揺れを感じたら、家に居たら水を貯めましょう、ブレーカーを落としましょうとか、テロのときは即座に反応して隠れましょうとか、ミサイルが落下する場合は地下に潜りましょうとか…。そういった実用的な知識を、改めてわかりやすく伝えるための演劇があってもいいんじゃないかと思ったのが、創作の根っこにあります。その意味において、「観た後も観た誰かのためになる演劇」が作りたいなと思っています。

正直、今までの「うんなま」の作品は、よくわからないとか意味不明とか難しいとか、まあそんな感想も時にはいただいてきました。一方で今回、選考していただいた岩崎さんからは「台詞の構成が巧みだ」、泉さんから「興味を観客へ提供できる形で成立してる表現手法」という言葉をいただきました。今回のような実用的なテーマで作品づくりを行うことは、お二人が仰ってくださった「うんなま」の特徴をまさに良い方向に転ばせられるんじゃないかと考えています。また、私たちの演劇を観ることで、「防災」あるいは「地震」「テロ」「ミサイル」等に対する知識や対応方法を、ネットや本とは違う手段で学ぶ機会にもなるんじゃないかとも思っています。今回、観客の皆さんは、ある種、講義形式のように演劇作品を観ていただくことになります。ただ、次回作以降は、観客の方々が劇中で実際の避難訓練をやってもらう「体験型」のようなバージョンも構想しています。社会的な実務や実用性、知識や情報を伴ったテーマによる「うんなま」作品の初戦として上演したいと思っています。

岩崎:ということは、お客様はずっと座って観ていられるということですね。

繁澤:今のところはその予定です。着想の時点では、実は座っていられないような演劇にしようと思ったんです。でもそれは次回以降にしようかと(笑)。今回扱うテーマは、ポータブルにできると思っていまして、例えば「ひなんくんれん:講義編」と「ひなんくんれん:実践編」みたいにシリーズ化を目論んでいます。

◇“インフォテインメント”な演劇を作りたい◇

 

繁澤邦明さん

繁澤:今作のストーリーラインはシンプルです。一人の女性が夜明け前に薬の過剰摂取、いわゆる自殺未遂のようなことをするところから始まります。彼女はそのまま夢の中に入り、そこで自分の父親や母親に対して、地震、テロ、ミサイル等に対する防災について説いていきます。その世界とは別に、自殺未遂後に酩酊、昏睡状態にある女性の部屋のベッドの横で彼女を見守り続ける男がいる世界、構造としてはこの二つで成り立っています。自殺未遂をした女性と彼女を見守る男というのは、私の実体験に基づいたものです。「人は人のために、一体何ができるのか」という思いにも繋がるのですが、自殺未遂をした女性とそれを見守り続ける男性、家族に生きていて欲しいから防災の知識を説き続ける女性、あるいはこの演劇作品自体が観客のためにその知識を説き続けているという構図をつくることで、ちょっと歪かもしれませんが、「誰かのための演劇」でありたいと願っています。そして、「いつか起きる」とされている有事と、自殺未遂をした女性を見守り続ける男の「いつか終わる」恋・青春の想い、その対比の妙を描ければと思います。 演劇作品ですので、演劇的なうねりと、演劇ゆえの猥雑さが持つエネルギーと、劇的な空間をつくっていきたいと思っています。

最後に、うんなまの『ひなんくんれん』は、観て、知識として学べる「インフォテインメント」な演劇を目指しています。「インフォテインメント」とは「インフォメーション」と「エンターテインメント」をかけ合わせた言葉です。僕も最近知ったのですが、カーナビなどで使われているようです。演劇って、エンターテインメントですよね。これだけ娯楽や情報を提供する媒体が多い中で、エンターテインメントである演劇が、防災的な知識=インフォメーションを提供することでより発展していく、っていうことにも挑戦できれば良いなと思っています。劇団がただ面白い演劇を作って上演するだけ、ではないというか。もちろん、キーワードとしては、「誰かのための演劇」、そして「うんなまを観て防災になっちゃう」、この二つを押し出していきます。演劇を普段観ない方々にも、演劇を観るきっかけになったらいいなと思います。今回、うんなま初めての人は1000円という料金設定なので。


■質疑応答■


Q.葭本さんは『光の祭典』を女性に観てほしいとのことでしたが、男性に向けてはいかがですか。また、初演で男性からどんな反応があり、男性に観てもらうことへの意識はどのようなものかお聞かせください。

葭本:初演を観られた男性のほとんどに「本当に怖かった」と言われました。でも、「抑圧」は女性だけが感じているものかというと決してそうではないんです。男性でも同じように抑圧の中で苦しさや悲しさを持って生きている人がいると思います。初演では、女性の情念や、深くて怖い狂気や、その狂気が対外的に出てくる様子(束縛・暴力など)を描きました。今回の再演では、その狂気を受ける男性や、それの様子をみている他の男性がどう感じているかをより具体的にしていきたいと思っています。観客の男性が「もしかしたら自分もかつてこういう目にあった」と思うかもしれません。この公演を観ることがそういうことを思い出す機会になればいいなと感じています。

Q、うんなまの作風について「猥雑さが特徴」とありますが、どんな猥雑さを想像すると近しいでしょうか。また、いつもその猥雑さは想定されていますか?

繁澤:「現代性と演劇的猥雑さの両立」という言葉をいただいたこともありますが、物語の筋が見えにくいのに台詞はポエトリーだったりするところや、劇ならではの言葉や構造、体験を作っているというところでしょうか。

岩崎:僕は、若者の日常言葉を雑然と舞台に置いていると見せかけて、実は構成されているという感じのことだと思っていますけどね。

Q.震災を描いた作品は、映画や舞台などでたくさんあるかと思いますが、直接今回の作品に繋がらなくてもいいですが、参考のために観たものはありますか?

葭本:私が影響を受けたのは園子温監督の映画『ヒミズ』です。抑圧された子どもがどうやって生きていくかを描いている点で参考にさせていただきました。この映画は、震災で家族や家を失くした人たちが東京に流れ着くという話です。『ヒミズ』もそうですが、私は震災が人に与える影響は経済的なことだけでなく精神的にもあると思っています。というのも、私自身がすごく抑圧された子ども時代を送っていたようで、大人になってからカウンセリングを受けると必ず「親との関係が悪い」と言われます。でも、両親のことが大好きで、私のことをすごく応援してくれているのに、なんでそう言われるのか腑に落ちなかった。そしていろいろ考え、行き着いた原因が「震災」でした。被災当時の両親は20代半ばで今の私と同じぐらいの年齢でした。その若い夫婦が家も財産も無くしてしまい、子どものためにがむしゃらに働くようになりました。子どもはそれを見て困らせちゃいけない、「いい子」じゃなきゃいけないと思い、そして親に甘えられない子になってしまった。私たち親子の関係には、やっぱり「震災」が大きく横たわっていたということに、『光の祭典』を書きながら気づきました。

繁澤:正直、これという作品を思いつきません。ただ、特に「3.11」の震災があった後、「震災」を題材にした作品がやたらと多いと思いました。そして、震災で世界が崩壊するということが安易に表現のカタストロ
フィーや手段として使われていると感じました。それに対するアンチテーゼではないですが、今回の作品のテーマとして、どういったことを意識したら別の視点で「震災」や「防災」に対するアプローチができるかを考えていました。一つの例としては、プレゼンテーション番組の「TED」やスティーブ・ジョブズのAppleのプレゼンを参考にしています。ビジネス的なアプローチかもしれませんが、「必要な知識・情報の『伝わる』伝え方」というのを意識して作品作りに活かしたいと思っています。かつ、もちろん劇ゆえの面白さとしての台詞構成、構造も意識して臨みたいです。


                                   (2018年4月 大阪市内にて)

平成30年度次世代応援企画break a leg 

少女都市『光の祭典』 
作・演出/葭本未織
平成30年6月1日(金)19:00、2日(土)14:00/19:00、3日(日)11:00/15:30
公演詳細

 

うんなま『ひなんくんれん』 
作・演出/繁澤邦明
平成30年6月9日(土)15:00/20:00、10日(日)11:00/15:00
公演詳細

ハイバイ 『ヒッキー・ソトニデテミターノ』
岩井秀人 インタビュー

撮影:平岩享

 

 

 

 

AI・HALL共催公演として、ハイバイが2018年3月8日(木)~10日(土)に『ヒッキー・ソトニデテミターノ』の上演を行います。

本作品の脚本・演出で主人公の登美男役を演じる岩井秀人さんに、作品についてお話いただきました。

 

公演詳細はこちら

 

 

 

 

 


<前作『ヒッキー・カンクーントルネード』について>

 

『ヒッキー・ソトニデテミターノ(以下ソトニ)』は、2012年にPARCO劇場のプロデュースで初演しました。これは2003年に僕が最初に書いた台本『ヒッキー・カンクーントルネード(以下カンクーン)』の続編に当たる作品です。

僕は16~20歳まで引きこもっていたのですが、その間、プロレスラーになりたくて、そのギャップの大きさがただ苦しかったんですが、そこに喜劇性を感じて『カンクーン』を書きました。上演してお客さんと共有した時に、笑われたけどすごく面白くて、それが僕の中でいろんなもののスタートになっています。

 

 

<本作『ヒッキー・ソトニデテミターノ』で描きたかったこと>

 

 
初演時2012年PARCO劇場 ©曳野若菜

10回以上再演している『カンクーン』についてお客さんと話をしている中で、僕は作品の終わりで主人公の登美男が外に出られたか出られなかったかわからないように作りましたが、「登美男くんが外に出られてよかったですね」という感想をもらったり、「出られたか出られなかったかが判然としないと作品の感想を持てない」と言われたりして、多くの人が無意識レベルで「家から外に出なくちゃいけない」と思っていること自体に、疑問をもってほしいと感じるようになりました。

僕自身、家から出たことがよかったかどうかはわからなくて、自分の半分くらいを部屋においてきたというか、自分の半分くらいを社会的に“殺して”外に出たという感覚があります。だからお客さんとのやり取りの中で、「引きこもりの人に何か言いたいことないですか」と言われた時に、僕は誰よりも、現在進行形で引きこもっている人に対して、ものを言っちゃいけない立場だと思ってます。

特に、自分のような「たまたま外に出て、引きこもっていたことをちょっと面白おかしくネタにして食っているやつ」が、深刻な理由で現在も引きこもっている人に対して「出た方がいいよ」というようなことを言うのは、ほんとに“殺人”に近いことだと感じています。引きこもっている人の切実さを知らないで「出た方がいい」とか「出られてよかった」というものを見せるとか、「出られないとダメだ」という文脈を押し付けることがなによりもキツいと思っているので、本作を書くまでの10年間に、そこについてもう少し考えられるものを作りたいと思っていました。

この作品は登美男が家から出た後の話を描いていますが、別のパターンの「引きこもり」を登場させて、家から出ない理由とか、家から出ないで何をしているのかということを描きたかったし、「自分を半分殺して外に出た」という感覚についても描きたかったんです。

 

――引きこもり自立支援団体での取材、「高齢引きこもり」について

 

僕が20歳を越えても家を出なかったら、臨床心理士だった母は引きこもり支援センターの寮に僕を入れることも考えていました。そこは、実在の施設で、職業訓練やアルバイトをしながら、「引きこもり」が自立していくのを手助けします。

もし、その施設にお世話になっていたら自分はどういう生き方をしていたんだろうという感覚があるので、施設内での生活やレンタルお兄さん、お姉さんがどういう仕事をしているのかを取材しました。

取材している時、施設の茶話会のようなものに参加した際、60歳くらいのおじさんがいて話しかけると、「息子が20歳から引きこもっていて、かれこれ20年になるんですよね」という話をされ、それを聞いた時、「引きこもり」がちょっと新たなステージに差し掛かっているぞと思いました。全国的にも引きこもりの人の高齢化が進んでいるようで、2012年の初演時には「高齢ひきこもり」に関してはノータッチでしたが、自分もその可能性は多いにあったわけだし、これからだってわからないわけなので、それについては書きたいと感じました。

 

 

<再演にあたって台本の書き換えは?>

 

韓国公演より2015年DOOSAN ART CENTER

例えば「引きこもり」という言葉が登場した時、最初は当事者以外の人たちが、ネット上とかで、引きこもりの人が見たら絶望しちゃうようなひどいことを山ほど言うんですよね。新しい言葉を使って、ただ遊ぶ。だけどそこから段々と「引きこもり」という言葉を使う人が増えて、「ヒッキー」とか「自宅警備」っていう愛称がついたりとかして、多角的にカテゴリー分けとかしながら活用形を見つけていく。

そして最近だと「去年、引きこもってた」ぐらいのことを話す人って身の回りにいる、みたいなレベルになっていて、それは言葉自体がもつ不思議な作用でもあるけど、日本ではそうやって新しい生き方に名前をつけて、最初は乱雑にその生き方を扱うんだけど、乱雑ながら、その生き方の実体を知っていく。そこから、自分たちの人生にも「引きこもり」の要素があることに気付いていく。と同時に、「引きこもり」当事者にも居場所を認めていく。そういった新たな生き方とか感覚が根付くまでのスピードが異常に早いと思います。

 

 

<現在「引きこもり」の方に作品をPRするとしたら、どういった言葉を?>

 

現在「引きこもり」の方には一番見てほしいですね。もちろんすごくキツい現実の可能性も書いてあるけど、「そこまで行った時に、出るという判断をしてこそ出られる」みたいな感覚が僕個人としてはあります。だから見た感想を聞きたいし、見に来てほしいと思いますね。でも見に来てほしいけど、一番見に来づらい人たちですものね。難しいですね。

 

演劇って、自分では気づいていなかったり、自分の中にあったんだけど言語化されてなかった違和感っていうのを、明らかにして共有するような効果がある気がします。

ある女性の方で、旦那さんの言葉のDVがものすごくひどくて、友達に相談したら、「聞いてみたいから、録音してきてくんない?」って言われたんですって。そして奥さんは、恐る恐るだけどちゃんと録音に成功したわけです。それで、友達といっしょに再生して聞いてみたら、笑えちゃってしょうがなかったみたいなんですよ。「もう、ちょーバカみたいなこと言ってる」と。これは多分、とても閉鎖的なところで起きていた理不尽なことに、「社会」として友達が挟まったことで、喜劇に転換された、みたいなことが起きているんだと思います。こういうことが演劇が持ってる機能と同じなんじゃないかと思います。その人個人が持っている過去のトラウマや引っかかっているけどどうにもならない経験に、別の視点や社会が挟まっただけで、その見え方がガラーンって回転するみたいなものがあって、根本的な問題はもしかしたら解決しようがないのかもしれないけれど、その人にとっての出来事の意味合いを変える、みたいなことを、僕はすごく演劇に期待しているんだと思いますね。

(2018年1月 大阪市内にて)

平成29年度演劇ラボラトリー 空晴プロジェクト 
岡部尚子インタビュー 

昨年6月から開講した演劇実践講座「演劇ラボラトリー 空晴プロジェクト」。その集大成として、3月3日・4日に『何度でも、もう一回。』を上演します。作・演出の岡部尚子さんに今回の作品について、当館ディレクターの岩崎正裕がお話を伺いました。


■空晴プロジェクトについて

岩崎:平成28年度から岡部さんにお願いしている「演劇ラボラトリー」の特徴は、「空晴プロジェクト」であるということです。「空晴」という劇団があって、その劇団員も関わりながら、一般公募で集まった人たちと演劇作品をつくっていただいています。看板俳優の上瀧昇一郎さんにも活躍いただいているのですが、劇団員のみなさんは、具体的にどのように関わってくださってるんですか?

岡部:講義のときは、みんなほぼ参加してくれていて、私一人で進める日はまずありません。うちの劇団員が2、3人、全員参加するときも多いです。講座の前半は、劇団員もラボ生(=ラボラトリー受講生)と一緒にゲームやエチュードに参加します。ラボ生に出した課題も一緒に発表するんですが、たまに、「それで大丈夫か?」と不安になるぐらいの出来のときもあります(笑)。この演劇ラボラトリーがひとつの劇団みたいな感じで、そのなかにうちの劇団員も混じっているので、ラボのメンバーにも面白いと思ってもらえているんじゃないかなと思います。

岩崎:初めての人たちと意思疎通をしていくうえで、劇団員が入っているのは、いいかたちで繋がりが生まれていきますよね。

岡部:私個人対ラボ生という関係だけでなく、劇団員がその間のワンクッションとして、いい接着剤になってくれています。今回の公演にも、小池裕之と駒野侃の二人を出演させることにしました。

 

■『何度でも、もう一回。』について

岩崎:一年間の集大成となる公演がまもなくですね。今年の作品の特徴は何ですか?

岡部:作品の根底は、空晴ならではの会話劇でホームコメディです。そこにプラスして、去年と同じく、アイホールやラボだからこそできることを取り入れました。劇場空間や舞台の使い方、音楽の使い方など、普段の空晴ではやらないことにチャレンジしています。あと、空晴では、上演時間一時間半ならリアルタイム一時間半の芝居ですが、今回の作品は、一幕三場構成にしました。これは私にとっても初めての試みです。

岩崎:えっ、そうなの? 岡部さん、時間を飛ばしたりしないの?

岡部:しないんですよ(笑)。最初と最後にイメージシーンを入れて、「もしかしたら何年後かの設定かな」と思わせることはしますが、大きく場を変えることは、会話劇ではやったことがありません。だから初めてです。といいましても、時間経過のスパンは短いです。一場が2018年3月、二場が2018年11月、三場がちょっと時間が戻って2018年1月なので。

岩崎:今年も、空晴の公演で過去に上演した作品をベースにされているんですよね。その作品と今回と、どこをどのように違うものに仕立てていくんでしょう?

岡部:ベースは『もう一回の、乾杯。』(2005年初演、2017年再演)で、一幕一場の作品です(笑)。そして、親戚が集まっている家のベランダが舞台で、家の中にはたくさん人がいる設定ですが、実際に登場するのは7人だけでした。今回の『何度でも、もう一回。』は三場ものですし、ラボ生14人とうちの劇団員2人を合わせた16人が登場するのが大きく違います。前の作品では、「あのおばちゃんはこうやで」と話題にして、お客さんに想像してもらうだけだったんですが、今回の作品では、実際そういう場面を見せることができる。親戚のおばちゃんといった登場人物の幅の広さは、うちの劇団ではなかなかできないので、「あー、それ、あるある」ということを実際に目の前で起こすことができるのは面白いです。

岩崎:映画でいったら、『もう一回の、乾杯。』はカメラが定点でベランダを撮っていたけど、今回は、カメラが家の中にまで入って、実際に親戚が集まっているところも全部撮っている、みたいなことですね。

岡部:舞台裏も見せています、という感じです。今回のラボラトリーの参加者は女性が多くて、おばちゃんパワーから若い女の子パワーまで舞台上で揃っているのは、空晴ではできない。この女性のパワーは、今回、特に面白いですね。

岩崎:親戚が集まるというエピソードで構成されるわけですが、その人たちは何のために集まっているという設定なんですか?

岡部:一場はお葬式。最初は「式」という情報しかないんですが、お葬式です。二場の8か月後は結婚式。三場は時間が戻ってその年のお正月。どれも親戚が集まる代表的な行事です。

岩崎:ということは、舞台は都会ではない?

岡部:田舎の大きな家、それも何代も続いている旧家という設定で、来客用の広間が舞台です。今回集まったメンバーが、20代~70代までの年齢層がある女性だったので、女系の家庭にして、婿さんばっかりもらっているという設定にしました。

岩崎:岡部さんの実体験や、親戚縁者の関わりのなかで見聞きしたものも反映されているんですか?

岡部:はい。うちの劇団員のエピソードも入れました。あと、秋ごろのラボで、冠婚葬祭の思い出を語ってくださいという課題を出して、そこで語られたエピソードからチョイスもしました。参加メンバーには人生経験豊富な人もいらっしゃいますので参考にしました。やっぱり、冠婚葬祭の出席率って、年齢を重ねれば重ねるほど多くなりますよね。若い人のなかには「まだお葬式に出たことありません」とか、「一回だけです」という人もいて、そういう意識の違いも面白かったです。

岩崎:メンバーの体験を語るところから始まって、それも題材として使いながら台本にしていったのですね。

岡部:そうです。あて書きもしています。劇団ではこんなに大勢の人は出演しないし、年齢層の幅も広くないので、最初は16人も登場させるのかぁ、大変だぁと思ったんですけど、書いていくとね、人物が足らなくなってくるんですよ。この家の系図を作ったんですけど―そうしないと誰かどうか私もわからなくなってくるので(笑)―、書き進めていくと、この人物も出てきたら面白いかもと思い始めて。そのうち、このエピソードを運ぶための誰かを出したいのにもう全員登場している…とか、この人物はこの情報を知っているから使われへん…とか。普段の倍以上の人数を使っているのに足らへん‼ となりました(笑)。楽しかったですけどね。

 

■劇団と演劇ラボラトリー

岩崎:参加メンバーは、演技の経験値がそこまで高いわけではないですよね。

岡部:劇団に入っている人が2人ほど、あとは年に1回公演に出ていますとか、ワークショップ公演に何度かでたことがありますとか、初めてですという人もいます。経験の差はありますが、全般的に舞台経験の少ない人が多いですね。

岩崎:そういう人たちと、この二年間、ラボラトリーをやってみて、空晴や岡部さんにとって良かったことはありますか?

岡部:「空晴プロジェクト」と銘打って、劇団ごと参加することで、集団としてもスキルアップしていく感じがあります。うちの劇団は、公演以外で集まって稽古することはほとんど無いんです。たまに上瀧がワークショップをすることもあるんですが、私はほぼしない。あと、うちの劇団員は、私の元・生徒が多いので、ラボでもう一回演技の復習をしている感じがしています。学校のときは訳も分からず聞いていたけど、今改めて聞くとわかるみたいな。だからといって劇団員がいろんなことを完璧にできているわけではありません。ただ、良くも悪くもラボ生たちのお手本になっているんじゃないかなと思っています。課題発表や稽古を通して、あんなことをやってもいいんやとか、あれをやったらツッコまれるんやとか。そういう指針にもなっているんじゃないかなと思っています。

岩崎:劇団の若い役者にとっても、演技とはこういうものなんだと意識的に再確認する場にもなっているんですね。

岡部:劇団員にとっては、「それは初めて聞いた」ということはほとんどないと思います。ただ、普段の稽古で言っていることを、ここではもっと噛み砕いて伝えています。劇団だと「一聞いて十わかってよ!」という思いもあるんです。でも、ラボでは、考え方も年齢も違う人たちが集まっているので、こういう言い方をしてみよう、ああいう言い方をしてみよう、この人にはこう言ってみようと工夫することで、私も伝えるための言葉が増えていくし、コミュニケーションの取り方も劇団と違っています。その違いは私も劇団員も互いに感じているでしょうし、ラボ生もそういう私たちの関係をみて、演技について学んでもらっているので、面白いかたちだなと思います。

岩崎:苦労も多いかもしれませんが、苦心しているのはどういうところですか?

岡部:言葉をたくさん持たなければいけないと言いましたが、すぐに身につくわけではないので、そこは苦労します。劇団員だとこういう言い方で伝わるけど、ここではどう言えば伝わるだろうかとか。講義の内容でも、これをわかってもらうにはどうすればいいのか考えます。公演の稽古に入ったときに、前半でやった内容はこのための準備だったんだけど、イマイチみんなのなかで繋がってないなと感じると、もう一回戻ってやらなあかんのかなとか、別のアプローチをどうしようかなとか。私が持っている方法が少なかったりするともっと勉強せなあかんと思ってしまいますね。それに、私よりも人生経験をお持ちの方がたくさんいらっしゃって、そういった人たちとお付き合いをすることが普段の劇団では少ないので、面白みがあります。自分の持っているものだけでは勝負できないと思うと、こっちもまだまだ勉強せなあかん、ウカウカしていられないと思いますね。

岩崎:年上の人と一緒にやると、鍛えられるところがありますよね。

岡部:はい。人間的にも鍛えられますよ。

 

■次年度に向けて

岩崎:岡部さんには次期の演劇ラボラトリーもお願いするのですが、三年目の作戦はありますか?

岡部:劇団以外に書き下ろした女性中心の作品が一つあって、空晴で上演することは無いだろうと思っていたんですが、でも、もしかしたら、この演劇ラボラトリーならできるんじゃないかなと。もちろん男性キャストも必要ですが。あと、私が去年から古典芸能にハマっていて、実際、絡めるのは難しいだろうけど、何か絡めてみたいなあとぼんやり思っています。自分が経験してプラスにしてきたことを、劇団以外で還元していく場があるというのは面白いなあと感じています。

岩崎:劇団だとひとつの中心に向かう作業はできるけど、こういう現場は幅が広がる作業ができますよね。 

岡部:劇団員も楽しく参加していて。去年の最後の講義で、なぜかうちの劇団員が泣き出して(笑)。ラボ生は一回にかける情熱で感極まるのはわかるのですが…。でも、その様子をみて、一年間一緒にやってきて、もう一つの劇団のようになっていることがわかって嬉しかったです。

岩崎:何も無いところから一つのことを成し遂げるんですから、それを目の当たりにすると感極まるよね。みんなが一緒に走って舞台ができる、その伴走者として劇団員がいてくれたからこそ、率直にいいなと思って泣けたんでしょうね。演劇が信用できるよね。

岡部:ラボ生のことを思って大泣きしていたので(笑)。本人たちも演劇っていいなと改めて気づけたのではないかなと思います。劇団員のそういう一面を知られたことも嬉しかったです。

岩崎:この演劇ラボラトリーは、お芝居を経験している人がいてもいいし、初めての人も歓迎するし、ということで来期もあるということですね。

岡部:はい。私はいつもこの公演が今の私の最高作と思ってやっています。だから、去年の公演終了直後は、いい公演だったなと感じていたんですが、振り返ると、こういうこともできた、ああいうこともやりたいと思って(笑)。そのやりたいことを今年の公演でやっています。来年はまたプラスアルファされていくんだろうなとも思っています。それが自分としても楽しみです。でも、まずは目の前の今年の公演。良いものをしっかり届けられるように頑張ります。

岩崎:出演者には、舞台セットのなかで照明を浴びて演じるのが初めての人もいるわけで、ここからが彼らも面白いですよね。袖で待機する独特の雰囲気を経て舞台上に出るという。

岡部:そして、お客様がいるっていう(笑)。

岩崎:楽しみにしています。

2018年2月 アイホールにて


平成29年度AI・HALL自主企画
演劇ラボラトリー 空晴プロジェクト公演
『何度でも、もう一回。』
作・演出/岡部尚子
平成30年
3月3日(土)19:00
3月4日(日)12:00/16:00
公演詳細はこちら

現代演劇レトロスペクティヴAI・HALL+内藤裕敬『二十世紀の退屈男』
内藤裕敬インタビュー

現代演劇レトロスペクティヴは、時代を画した現代演劇作品を関西を中心に活躍する演劇人によって上演する企画です。今回、南河内万歳一座の内藤裕敬さんがアイホールとタッグを組み、自身の初期代表作を上演します。公演に先駆け、内藤さんにお話を伺いました。


■「ザ・昭和」な作品を若い人たちとつくる
『二十世紀の退屈男』は、六畳一間シリーズの第3作目で、初演が1987年、約30年前です。その後、南河内万歳一座では何度か再演をしています。劇団の作品を、全キャストオーディションで上演するのは今回が初めてです。「万歳の芝居は万歳じゃないとできないんじゃないか」と思われる人もいるかもしれませんが、「そんなことないよ」というようにしたいと思っています。また、「ザ・昭和」という感じの作品なので、上演するにあたっての賞味期限が切れていないか、すごく気になっています。かといって、現代風にアレンジするのはよくないだろうとも思い、「若い人たちが、今、この作品をやるとどうなるのだろう」ということを、稽古をしながら慎重に見守っています。
 舞台は青年が暮らす六畳一間。その部屋には、都市に出てきたが、夢叶わず都市から去っていった、かつての住人たちのさまざまな痕跡が傷やシミとして残っています。その痕跡たちが一気に騒ぎ出し、そこで暮らす男の孤独をそそのかすというのがオープニングです。そこに、青年宛ではない手紙が間違えて配達されます。配達した人を探すために彼が外出しようとすると、その六畳一間にかつて暮らしていた人たちが仕事や遊びから帰ってきて、みんな「ここは自分の部屋だ」と主張します。物語はその部屋の持ち主の決め手を見つけるべく展開していき、実はいわくつきの部屋だということも歴代の住人たちの証言でわかります。都市の六畳一間を舞台に、過去にそこで暮らしていた人たちを巻き込み、青年が孤独と青春の焦燥感に対してもがく一日の物語です。
 だから、主人公の持つ孤独を共感できたり、イメージをリアルに感じることができないと、この作品を立ち上げていくのが難しい。稽古が始まって最初の一週間は、台本を読んだり立ったりしながら、出演者にそのことを徹底的に言いました。みなさん違和感なく理解しています。
 今、大阪芸術大学で授業を担当しているんですが、学生と向き合うと、もしかしたら僕らの頃より貧乏かもしれないと感じます。さすがに今は六畳一間の木造ボロアパートはないですが、学生の生活そのものは貧乏でお金に困っています。僕自身、若者の現状は今も昔もあまり変わってない印象を持っていますので、主人公の青年が持つ、青春の焦燥感と孤独感をしっかりとフューチャーして立ち上げれば、現代風なアレンジではなくても、今にも通じるものができるのではないかと思っています。リライトは少ししますが、作品全体の昭和的なディティールは変えません。携帯電話も出てきません。“手紙”という頼りない伝達手段が、物語や登場する人物の関係をややこしくしていきます。そのアナログさを、一つの創造性として担保しておきたいと思っています。

 

■青春の焦燥感と苛立ちを描いた作品
 この作品は僕が27、8歳のときに書いたもので、二つの詩をモチーフにして作ったことを改めて思い出しました。それは、ルイ・アラゴンの「青春の砂のなんと早く/指の間から/こぼれ落ちることか」という詩と、石川啄木の『一握の砂』にある「いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ」という詩です。もう手の中に残っていないと感じた青春の焦燥感と、「二十代はこんなはずじゃなかった」という僕自身の思いが、『二十世紀の退屈男』のスタートになっています。
 二十代前半は「これから様々な出会いがあって、いろんな体験をして、何かが大きくなっていく」という未知なる期待があったのに、半ばになって「こんなはずじゃなかった」と首を傾けはじめる。そして二十代後半になると「このまま三十になっちゃうの? こんなことでいいんだろうか」と思い始め、どんどん自分の可能性が剥がれ、やせ細っていくのではないかという苛立ちと、輝かしい時間が何もないまま終わっていくのではないかという青春に対する焦燥感みたいなものが生まれる。都市に出てきて、自分は前に向かって踏み出そうと頑張ったのに、ハッと気がつくとポツンと孤独で、友人が多くできたわけでもなく、仕事が上手くいっているわけでもなく、何かを探し当てたわけでもなく、ものすごく退屈な二十代の中にいる自分に気づく。当時の僕は、自分が傷ついたり人を傷つけたりすることが二十代の証しになるような気がして、「どうせ孤独な退屈のままで何もないんだったら、悪いことでも起きたほうがまだマシだ」という感覚になっていました。主人公には、そういった僕自身が反映されています。
 また、自身への課題として「長台詞を書くぞ」という覚悟で書いた作品でもあります。当時、長台詞が書けないことで悩んでいた時期でした。唐十郎さんと知り合って三年目くらいだったんですが、唐さんの舞台は、まぁ見事な長台詞が並ぶんですよね。それで「唐さんのように三幕で三時間という構成はできないです。長台詞が書けなくて、会話を転がしていって、たまに書いても五行くらいなんです」と唐さんに話すと、「無理して書かなくてもいいんだ。ただ、長い台詞というのは文学的な要素が入るので、自分の劇文体の文学性と向き合わなくてはいけないね」とおっしゃってくれました。そんなこともあって、文学的に長台詞をやってみようと思って書いた作品なので、いま読むと「文学青年をやり過ぎているだろ」と鼻につくところがあります。そこを今回、少し手直ししようか悩んでいます。ちなみに三幕構成については、唐さんに「三幕にならなくてもいいから、“果てしない一幕”を書けばいいんだよ」と言われました(笑)。ここ十年ぐらいで「果てしない一幕」を書くということに向き合って芝居をやっているなという気がしています。

 

■出演者について
 出演者は、60人以上の中から全員オーディションで選抜しました。オーディションには力量的にもっと上手い役者もいました。でも、この作品ですし、下手でも野心的で威勢の良い役者がいい、暴力的に、なしくずし的に舞台を成立させるくらいの筋力を持っている役者がいいと思い、その基準で選びました。そういう意味では、みなさん稽古場でその能力を発揮してくれています。オーディションで採用した、活きのいい俳優がいるので、初演時に新人劇団員に「君たちは“老人たち”で」とぞんざいに割り振ったシーンをリライトし、出演者ひとりひとりが活躍できる台詞を書きたいと思っています。
 稽古をしていると、役者たちは、舞台上で何かを発散したいという思いを持っているけど、いつも不完全燃焼で、何か手で掴めそうなものがいつも届かずに終わってしまっているという感覚を繰り返してきたのではないかと感じます。だから今回、ダイナミックに暴れることで、何か新しい自分のハードルを一つ越えてやろうという気概を持っている。みんな非常に前向きですから、その良い面を演出で引き出せば、初演とはまた違う熱量を持った作品を発表できると思っています。もちろん、作品の匂いや温度は変えるつもりはありません。

 

■いま、この作品を上演すること
 今は、2.5次元演劇が流行ったり、プロジェクションマッピングといった映像的なものも芝居の中で多用されていますよね。でも、僕はそんなことはまったく考えてなくて、とにかく人間が、生き物としてどんな表現ができるかを必死にやってきました。そこが一番違うなとすごく痛感します。舞台を観る観客のニーズというか、観客が感性として舞台に求めているものが、ものすごく変わっちゃったのかなとも感じています。かつては、商業的なものとか、お客さんがいっぱい入っているものを観たとき、演劇的には食い足りないと感じても、「演劇っておもしろい。もっと他のものを見てみよう」というお客さんが一人でも増えるならいいんじゃないかと思っていました。けれど、2.5次元の舞台を観た観客の感想を読んでいると、それも期待できないんじゃないかと個人的に思っています。あそこに演劇の観客が育つ環境は無い気がしていて。逆に、今回のようなお芝居の中から新しいムーブメントを起こさないといけないという思いが強くなりました。演劇の新しいことや、舞台で成立しうる劇的な瞬間にしがみついて具現化しないと、観客は観てくれないんじゃないかと思っています。だから、暴れ回っていた当時を思い出しながら稽古を進めています。
 観客のみなさんは、ご覧いただいたときに、「へー、昔は、こんなことやっていたんだ」という驚きや面白さがあるかもしれません。あるいは、「これは古い」と思われるのかもしれませんし、「いやむしろ新しい」と思われるかもしれません。いま、この作品を上演することで、観客のみなさんがどう感じられるのかについても僕は興味を持っています。ぜひ、ご覧いただければと思います。

 

Q.「ザ・ 昭和」とは、具体的にはどういったところですか?
 「西日が差す」「六畳一間」「木造モルタルのアパート」という作品に出てくるワードが、すでに“昭和”ですよね。西日があたる壁際に服をかけると色がくすむとか、タンスを置くと湿気がひどくて壁にカビが生えているとか、狭い六畳一間を有効活用するために押し入れの中に布団を敷いてベッド代わりにしているといった生活をしていることもです。そもそも六畳一間が、自分の青春の生活空間のすべてだということ自体が、ものすごく“昭和”な匂いを発していると思います。何が「昭和的」かという感覚は人によって違います。ただ、僕は、昭和という時代は即興的だったのではないかと思っています。戦争があって、戦後に急激な復興を遂げ、オリンピックや万博があって、高度成長期のピークを迎えるという、ものすごく駆け足で発展した時代。ボンネットバスが走れば埃で道路沿いの家の窓が真っ白になっちゃうとか、雨が降れば道路がぐちゃぐちゃになって長靴を履いて会社に行っていた時期から、東京オリンピックと大阪万博の開催で、あっという間にインフラが整備され、舗装道路ができ、いろんなものがきれいになっていく時期まで、ほんの数十年ですよね。一方で、高度成長期の発展が「みんな右へ倣え」でなく、取り残されたような木造モルタルの文化住宅もいっぱいあった。近代と前近代がごちゃまぜに存在しているようで、それが面白いアンサンブルになっていた。その、デコボコした感じの面白さがあった時代なんじゃないかと思っています。

 

Q.この作品を選定したのは、アイホールと内藤さんのどちらですか?
 現代演劇レトロスペクティヴでは、唐十郎さんや寺山修司さんなど、既にいろいろな作家の作品をされているので、何を上演するかはアイホールと会ってだいぶ話したんです。僕としては、じっくり構えるなら、秋浜悟史さんか清水邦夫さんの作品だと思ったんだけど、既に演出されていますし、長谷川伸あたりをやろうかという話になりましたけど、それも「現代演劇」という企画の枠としてどうかという話になって・・・。結果的に、自分の作品をやるかとなりました。
 それで、どうせ自分の作品をするなら、いまの若い人と組みたいと伝えました。今回、南河内万歳一座からは一人も出ていません。これは僕自身や劇団にとってもひとつの課題なんですが、再演をやろうにも劇団員の平均年齢が上がっているので、若い人をオーディションで選んで劇団員が脇を固めないとできない作品がいっぱいあるんです。今回、若い人とちゃんとコミュニケーションを取って、一本、面白い作品を発表できたなら、今後の南河内万歳一座でもその試みをするきっかけになるとも思っています。

 

青年団『さよならだけが人生か』
平田オリザインタビュー

39AI・HALL共催公演として、青年団が2018年1月26日(金)~29日(月)に『さよならだけが人生か』の上演を行います。作・演出の平田オリザさんに、作品についてお話を伺いました。


 

平田オリザ

■『さよならだけが人生か』について
この作品は、私にとっては非常に思い出深い作品です。青年団というのは、今はそういうふうには認知されてないんですけど、私たちの同世代のなかでは…横内さんとか坂手さんとかに比べると、最も遅くメジャーになった劇団でした。1989年に『ソウル市民』を初演して、その頃から演劇界では話題にはなっていたんですけども、当時まだインターネットがない時代ですし、こまばアゴラ劇場という小さな自分の劇場でずっと上演をしていたものですから、なかなかお客さんは増えず…。『ソウル市民』の初演がたぶん600人くらいの動員で、そのあとも2~3年は600人か700人の動員でした。当時は東京でも劇場の数が少なくて、タイニイアリスにいって、スズナリにいって、紀伊國屋ホールにいく、みたいなハッキリとした小劇場の出世コースがあったんですけども、うちはそういうのに馴染まないだろうと思って、ずっとこまばアゴラ劇場で上演をしていたんです。で、当時、渋谷にシードホールという、阿部和重くんが小屋番をしていたという伝説の映画館であり劇場があったんですけど、そこで満を持して初めての外部公演としてこの作品を上演して、爆発的に動員が増えました。そのあとこの作品でタイニイアリスフェスティバルにも参加したので、両方合わせると2000人以上の動員になって、演劇雑誌にも劇評が出るようになって、今に至るとば口を開いた作品になりました。

『さよならだけが人生か』2017年東京公演 撮影:青木司

ただ、私のお芝居はいつもあらすじの説明が難しいんですけど、特にこの作品は最も筋らしい筋のない作品です。まあ、そういう意味では最も私らしい作品とも言えるんですけども(笑)。工事現場でずっと雨が降り続いていて、さらにそこで遺跡が発掘されてしまったために、その調査もせざるを得ず、だらだらと過ごさざるを得ない飯場の人々の生態が描かれています。私としては、平田オリザ版・明るい『ゴドーを待ちながら』みたいなイメージで書いた作品なんですけど、初期の作品のなかでも最も何も起こらない作品になっています。タイトルは、井伏鱒二さんの『厄除け詩集』という、中国の漢詩を訳したものがあって、そのなかに「さよならだけが人生だ」という訳詞があります。私はそれが大好きだったので、お借りして付けました。先ほど、「何も起こらない」作品と言いましたけど、ひとつだけあるとしたら、人間の様々な別離の形が描かれています。娘の結婚の話、転勤の話、留学、長距離恋愛…そういったものが描かれるのと、「遺跡」「考古学」という人間の長い歴史のなかで、そういう別れと出会いを人間は繰り返してきた、そういうものが重構造になっているつもりです。

今回は再々演になるんですが、当然、初演時と同じキャストはひとりもいませんし、演出も随分変えております。もう東京公演は終わっているんですけども、大変好評で、笑いの溢れる上演になりました。関西でもぜひたくさんのお客様にご覧いただければと思います。

 

■再演にあたって
再演の時に変えるパターンはふたつあって、ひとつは、初演のときに足りなかった部分を書き足したり、変えたい部分があったときです。もうひとつは、私は俳優に合わせて稽古場で台詞をすごく変えていくほうなので、今回はそれを随分やりました。ただしこの作品にはもうひとつ変えたところがあって、それは、毎日新聞さんのおかげで再演のときに大変な目にあったからなんです(笑)。別に毎日新聞が悪いわけじゃないんですが(笑)、2000年の「旧石器捏造事件」のスクープのことです。ちょうど私たちは2000年に初の『東京ノート』アメリカツアーがあって、その直後にこの作品の再演が決まっていたので、アメリカに行く前にほぼ通し稽古まで終わっていたんですね。それからアメリカツアーに出たら、その最中に毎日新聞のスクープがあったんです。今みたいにインターネットがサッと見られる時代ではなかったので、「日本では大変なことになってるらしい」ということになって…。で、もう、どう見ても世間では、「事件があったからこの作品をつくったんだろう」と見られてしまうような感じになってしまっていたうえに、こちらはアメリカにいるから事情がよくわからないしで、もう公演中止にするかとミーティングをしたぐらい悩みました。本当にモロな時期だったので、再演の際にはその話題に触れないのも不自然な感じだったので、ちょっと台詞を足したりしたんですが、今回はそれをまた全部なくしています。

 

■質疑応答

Q.今回、この作品を16年ぶりに再演しようと思ったのはどうしてですか?

『さよならだけが人生か』2017年東京公演 撮影:青木司

うちはレパートリー劇団だと思っていて、ローテーションでずっと再演を続けているので、そういった再演に耐える作品を常につくりたいと思っています。そういう意味では、今回この作品を再演するのは、「順番だから」としか言いようはないです。しかし唯一、もっともらしい理由をつけるとすれば、最近とみに政治の季節が続いていて、演劇界もそれに影響を受けざるを得ず、若い作家たちの作品がすごく直接的な、政治的な表現が多くて…。その気持ちはわかるんだけれども、つまらないと思っています。なので出来るだけ何もない作品をぶつけようと思って、この作品を選んだところはあります。

 

Q.「静かな演劇」と呼ばれる作品を今までずっと書き続けてきたことについては、どういうお気持ちですか?

それはよく聞かれるんですが、小津安二郎さんの言葉に、「豆腐屋にカツ丼やハンバーグを作れって言ってもそれは無理で、せいぜい作れてがんもどきだ」という名言があります。そんな感じで私もつくっているので、目新しいことをやるってことにあんまり関心がないんですね。それよりは、何の起伏もないように見せて、一時間半なり二時間、お客さんをどうすれば退屈させないかっていう技術を磨いていきたいと思っています。その技術については、ある種の自負と、まだまだやれることがあるなという気持ちと両方がありますけどね。

先週まで私はパリとドイツのケルンでオペラをつくっていたんですけども、それは短い40分くらいのもので、難民を主題にしたオペラでした。去年はハンブルグの州立歌劇場で福島を題材にしたオペラをつくりました。いずれも、何かを断罪するとかそういうことではなくて、それを素材にして作品をつくっていて、でもそれは、例えばハンブルグの場合には、州立歌劇場からはっきりと、「福島をテーマにしたオペラをつくってくれ」という委嘱だったんです。今回もフェスティバル・ドートンヌで作品をやったんですけども、ヨーロッパの劇場や大きなフェスティバルのひとつのミッションというのは、今その国の市民にとって課題であるような社会的な議題について、議論になるような作品を提供するということなのです。そして私は常にそういう作品をつくりたいと思っています。

 

Q.初演から四半世紀経って、そのなかで観客の受け止め方が変わったところはありますか?

それはありますね。最初の頃は、「後ろ向いて喋るな」とか「同時に喋るとよくわかりません」とかアンケートによく書かれていました。そういうのは今はもうないですし、見慣れて当たり前になったというか…。私たちはレパートリー劇団のつもりでいるというふうに申し上げたんですけど、それから先ほど、劇場のミッションの話もしたんですけど、劇場というのは基本的に同じ演目を何度でも見られるという、ストックの機能が実は重要で、私たちとしては、劇団あるいはアゴラ劇場の単位でもそういうものだと考えていて、そういう意味では、お客さんとの関係が落ち着いてきたという感じはあります。そしてそれを私はいいことだと思っています。特に関西公演は最近、すごくお客さんが入ってくださっていて、伊丹公演でももうすでに一般前売完売の回があるんですけれども、本当に有難いことに年一回の青年団の公演を楽しみにしてくださっているお客様がいて、必ず来てくださるというのは、非常にいい関係だなと思っています。若い方は信じられないかもしれませんが、最初に私がアイホールで公演をさせていただくときに、岩松了さんからも「関西は大変だから行かないほうがいいよ」って言われて(笑)。伝説では聞いたことがあると思うんですけど、当時、東京乾電池が近鉄小劇場で公演したときに、カーテンコールで「わからへん」と野次が飛んだという(笑)。そういう時代からやってきているので、やっぱりお客さんとの関係が成熟してきたなと感じていて、それは演劇にとって、私にとって、いいことだと思っています。

 

Q.この作品を観て、どんな議論が起こるといいと思いますか?

観たあとに謎が残るので、必ず二人以上で観に来たら、「あれは何だったんだ」と話さざるを得ない作品になっています。それを話さなかったとしたら、その人は寝ていたってことです(笑)。

 

Q.青年団の豊岡移転についてお教えください。

兵庫県知事選の公約にもなっているのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、そもそも観光とアートを中心にした専門職大学を豊岡・但馬に作るということになっていて、早ければ来年1月に準備室が出来ると思います。その前後におそらく開学の年度が決まるので、そこに私も…これは人事のことなのでまだはっきりとは言えませんが、関わることはほぼ間違いないので、そのことが移転の理由としては一番大きいです。で、私が移る以上は劇団もそのまま移ろうということですね。劇団員たちで豊岡に移ろうという人は、思ったよりいます。当然、うちの劇団もマスコミなどで仕事をさせていただいている俳優たちもいるので、東京に残る人間もいます。そういう人たちは稽古の期間だけ来られるように、さらにレジデンス施設を作って、そこで2か月くらい滞在して稽古する形になります。鈴木忠志さんのところの利賀村のSCOTも全員が通年ずっといるわけではなくって、通年いる人もいれば、半年いる人、フェスティバル期間の三か月くらいだけいる人もいるんですね。それに似た形になるかと思います。


 

燐光群『くじらと見た夢』 坂手洋二インタビュー

アイホールでは、共催公演として、燐光群『くじらと見た夢』を12月15日(金)~17日(日)に上演します。創立35周年記念公演VOL.1として、約1年ぶりの新作となる今作。その見どころや創作の背景について、劇作家・演出家の坂手洋二さんにお話しいただきました。


■クジラと沖縄について描く
 約1年ぶりの新作です。1993年に『くじらの墓標』を発表して以降、四半世紀近く、僕はクジラを扱った劇を創ってきました。2000年に国際交流基金のアジア企画として、インドネシア・フィリピン・アメリカの俳優を招いて製作した『南洋くじら部隊』、渡辺美佐子さん主演で捕鯨村を舞台にした『戦争と市民』(2008年)、岡山県・犬島で石切り場を舞台にした野外劇『内海のクジラ』(2011年)などです。また、近年は、沖縄についての芝居も数多くやってきました。ハヤカワ文庫にも入っている『海の沸点』『沖縄ミルクプラントの最后』『ピカドン・キジムナー』、ほかにも『普天間』『星の息子』などです。今回の『くじらと見た夢』は、長く向き合ってきたクジラと沖縄のことが混ざった作品になりました。
 モデルにしたのは沖縄県名護市です。縦に長い沖縄県のちょうど真ん中あたりに位置していて、西の海と東の海、二つの海を持っています。西側が名護湾、東側が辺野古です。辺野古には、米軍基地キャンプ・シュワブがあって、普天間基地の返還にあたって代替基地の建設予定地にもなっています。ベトナム戦争の頃は米軍相手のお店もたくさんあって栄えたんですが、今はほとんど残っていなくて寂れています。そこの海人(ウミンチュ=漁師)たちは、今、防衛局の仕事をするようになっています。監視船とか調査船とかで1日5万円貰えるらしいです。漁師たちがなぜそんなことをしているかというと、辺野古は漁をするにはとても不利だからです。名護市には離れた二つの海があって二つの漁港がありますが、行政的に漁業協同組合は一つしかなく、「競り」も一カ所だけで、名護湾側にしかない。辺野古の漁師たちは車で30分以上かけて名護まで魚を運んで競りにかけている現実がある。船の燃料費や運搬費を考えると実質1日1万円ぐらいの売上にしかならないから、1日5万円の監視船の仕事も受けざるを得ない。そんないろんな矛盾が集積した複雑な地域を舞台にしました。
 
■名護の漁師たちが抱える矛盾をモデルに
 特に描いたのは、沖縄のヒートゥー(名護ではピトゥ。イルカのこと)漁についてです。イルカ漁やヒートゥー料理のことは知っていましたが、きちんと調べきれてなかった。僕の興味がイルカでなくてクジラだったから(笑)。名護の博物館にも初めて行ったのですが、2階がクジラ特集として大量の資料が常設展示されていて……、個人的には大喜びしました(笑)。そこには名護で捕鯨をしていたという事実が明瞭に示されていて。昭和26年に、ザトウクジラの親子が沿岸に来たので捕まえようとなったこと。小さい船(サバニ)ばかりで大きな漁船が1隻しかなく囲い込み漁が難しかったので、与論島に行こうとしている客船に今日だけ貸してくれと交渉して、船の人と荷物を全部降ろして借りて、親子のザトウクジラを獲ったこと。そういう資料が残っていました。ただひとつ、これは無残だと思ったのは、親クジラを解体するのに3日かかってしまい、後回しにした子クジラを腐らせてしまったということです。現在の機械的な方法では、沖で獲って、3~4時間で解体し、クーラーボックスに入れて港に戻ってきます。だけど、当時の名護の漁師たちはクジラの解体に慣れていないうえ、暑い地域だから、後回しにした子クジラが浜辺で腐ってしまった。もちろん漁師たちは子クジラを祀ります、でもその腐らせてしまったこと自体が無念の残る事件だし、それに対する漁師たちの痛みを「共同体の物語」として取り入れました。
東京公演の様子 撮影/姫田蘭

 また、昭和26年の漁に17才で参加された、名護に暮らす現在83才の男性に取材することもできました。彼は名護湾の沖合で「パチンコ」という方法でイルカ撃ち漁をしています。70㎝ぐらいのゴムを2m以上伸ばして撃って、40mぐらい先のイルカに命中させる。2~3人で一組、家族単位で漁をされています。それで、僕と同じ歳ぐらいの息子さんに命中率を聞くと、「打たせてもらえないのさ~、おやじが撃つから」と…。83才、まだまだ現役で撃っています(笑)。名護では今、20人ぐらいがイルカ漁をしていますが、1頭あたりの値段が高いわけでもなく、年間120頭と数も決められているので、普段は別の仕事をしながら月に数回しか船に乗らないという人も少なくないです。
 それでも、名護湾の漁師たちはまだ金銭面では恵まれています。辺野古湾側の漁師たちは仕事がなく、先月とうとう米軍基地建設を手伝うための会社をたちあげ、漁協組合の半分ぐらいの人がそこに入ってしまった。辺野古では、キャンプ・シュワブが建設されるにあたり、自分たちはもう魚を獲らないと漁業権を放棄した経緯があって、そのことが基地をつくる正当な理由になってしまった。翁長知事がどんなに反対しても防衛局や日本政府がそれを理由に通してしまった。だから、漁協組合が漁業権を放棄しなければ基地はつくられなかったかもしれないというジレンマを持ってます。そのうえ、米軍基地は辺野古側だけど、反対側の名護湾の漁師たちも同じ組合だから額面は少ないとはいえ保証金を貰っているんです。そのことを漁師たちに聞くと、「振り込まれてくるものだからしょうがないさ~」と気さくに話してくれる。でもそこに痛みは伴いますよね。こういう矛盾やジレンマについては、かつてルポルタージュでも書かれてないし、フィクションでも描かれたことがない。そうした名護の漁民たちをモデルに初めて、漁師たちの物語を群像劇としてつくりました。
 劇団民藝の佐々木梅治さん演じる84才の男が地元に帰ってくるところから物語は始まります。その男は、かつて名護のザトウクジラ漁に参加していて、町でクジラ漁が行われなくなって以降、「イルカでなくでっかいクジラを獲りたい」と町を出ます。そしてみんながその男の存在を忘れたころ、町に帰ってくるという設定です。『父帰る』ならぬ「クジラ捕り帰る」みたいな話です。
 
■町をあげての追い込み漁について
 名護湾では1972年に干拓し、堤防がつくられ、浅瀬が無くなりました。浅瀬は干潟にもなって、海の生命力が満ちているところで、沖縄の言葉で「イノー」と呼ばれすごく大事にされていたんです。でも、船を寄せるためとか、いろんな理由で堤防をつくっちゃった。今回の舞台美術はこの堤防を登場させました。
 イルカやクジラは、人間の力だけではなかなか獲れるものではないんです。ましてや沖のほうで捕まえて、港まで引っ張ってくるとなると、ちゃんとした動力船がないと難しい。じゃあ動力船のない頃はどうしていたかというと、寄ってきたんです。「ユイムン」=「寄ってくるもの」と呼ばれていて、海の神様がくださるものだと考えられていた。ちょっと前まで名護では、寄ってきたイルカを入り江に追い込んで町のみんなで獲っていたそうです。イルカは音を鳴らすだけで怖がって逃げるわけで、その習性を利用して名護の入り江に追い込む。一番多いときで約300頭を追い込んだそうです。追い込みのことをほら貝で町の人に知らせると学校も休みになって、お百姓さんたちも鎌や鋤をもって浜辺に集まる。年に何回か、そうやって町全体でお祭り騒ぎのように獲りまくっていたわけ。もちろん、海は真っ赤です。子どもの頃に名護に住んでいた知人が、夕日の色か血の色か区別がつかないぐらい真っ赤な海だったと語ってくれたほどです。そのさまは、見方によってはすごく残酷に映るかもしれません。でも、当時のイルカ漁を撮影した写真やフィルムをみると、とにかくみんなが笑顔、誰もが幸せそうなんです。一番貧困な時代に食べるものがある、タンパク源がある、そして町がひとつになっているということですよね。今回の作品には、そういったイルカ漁について書いた当時の小学生の作文を入手して、その言葉も引用しました。
 
■捕鯨現場の今
 今回、いつも以上に取材をしすぎました。たくさんの人に会い、話を聞きすぎました。まず今年の正月に、『くじらの墓標』のモデルになった宮城県・鮎川に25年ぶりに行きました。大震災の震源地に一番近い漁村だったので、未だに建物は正式には再建されてないんですが、捕鯨は震災前と全く同じ規模でやっています。以前訪れたときはクジラ捕りの平均年齢が45才を超えちゃったと愚痴られたけど、今回は平均年齢40才ぐらいに若返ったと聞いて……、それが嬉しかったです。
 5月には『南洋くじら部隊』の舞台になったインドネシア・レンバダ島のラマレラという捕鯨村に、約10年ぶりに行きました。そこでは500年ぐらい前から続く伝統捕鯨を維持していて、銛を打ってマッコウクジラを獲っています。10年前は、電気も電話も通ってなくて貨幣もない。山の民がトウモロコシをつくって、海の民がクジラを獲って干物にして、それを物々交換するという暮らしをしていたのに、今は、夜6時から朝6時まで電気は通っているし、なぜか中学校からWiFiが飛んでいてみんなスマートフォンを持っている……。正直、驚きました。そうした貨幣経済が介入したことで効率が求められるようになり、今、エンジンを搭載した捕鯨船が増えてきた。伝統捕鯨という理由でIWC(国際捕鯨委員会)もラマレラのクジラ漁に目をつぶっていたのに、エンジンを使うなら伝統ではないということでまた批判を受けるようになってきています。ちなみにこの劇のチラシの写真はラマレラで今年5月に捕られたシャチです。
 そして今年9月、初めて和歌山県の太地に行きました。太地は昔から「追い込み漁」という沖から入江にイルカを追い込む伝統的な漁をしていることになっています。が、実は一度途絶えたんです。その後1960年代に、太地に水族館をつくる計画が出て、展示用のイルカを捕まえるために追い込み漁を復活させたという経緯があります。ただ、水族館に売るために生け捕りしたイルカ以外は、その場で殺さざるをえなくて、血を抜かないと売り物にならないから血抜きをする。すると海は真っ赤になる。その様子が撮影され、『ザ・コーブ』という映画で配信され、血で海が真っ赤になる残酷な漁だと世界中から非難されることになります。
 『ザ・コーブ』はアカデミー賞を受賞し、太地では今、ブルーシートでその様子を隠すようになっています。やっぱり世情でいうと、血みどろで獲ることに対して厳しい目が向きますから。その映画のアンチともいえる、『ビハインド・ザ・コーブ』というドキュメンタリーを撮影した八木景子監督と知り合いになって、今年の漁の解禁にあわせて一緒に太地を訪れ、現地の漁師たちに取材しました。やっぱり漁師たちの現実はとても厳しい。油代は高いし、船具のメンテナンスもあるし、不漁のときもある。みんな生活が苦しくて必死に生き延びようとしています。最新情報としては、中国が今、全国各地にテーマパークを建設中で、その全ての水族館にイルカを入れたいということで、太地と5年契約を結ぶことになり、それでやっと漁師たちも一安心しているというのが現状です。
 僕が取材したこうした土地の話は劇中、円城寺あやさんが博士の役で登場して触れるようにしています。太地の事情はかなり描きましたが、鮎川やラマレラのことは、本当に数行だけでほとんど入れていません。
 
■子供が憧れるクジラ
 僕がなぜこんなにクジラが好きなのかというと、子供の頃、小学校の給食で出てきて馴染みがあるのと、南氷洋捕鯨の男たちにカッコいいと憧れたからです。南氷洋捕鯨には3000人近い日本人が船団をつくって参加しました。その1割5分が太地の人で2~3割が加工会社の人。「捕鯨オリンピック」と呼ばれる時期があって、どの国が捕ろうと年間の捕鯨数枠だけが決められていたので、各国が早い者勝ちのように競って捕っていた時期もあった。太地で出会った90才の男性が、うちの母船は捌くのが早くて、15分でシロナガスクジラ一体を捌いたと話してくれたのですが、もうガンガン獲りまくっていたんですよね。そうした南氷洋捕鯨の黄金期に、日本の食生活をタンパク源として支え、しかも戦争に負けて意気消沈しているなか、南氷洋に3000人で出かけていって、勇ましく働いている人たちがいることに、日本全体が励まされたわけです。僕が小学生の頃に、学習雑誌の付録に紙で組み立てる捕鯨船がついていて嬉しかったように、クジラという存在は子供が憧れるものでもあり、戦後日本を励ましたものであるからこそ、興味を持ちました。
 
■クジラの夢と今の日本
 クジラは魚と違って哺乳類だから、どんな潜水能力を持っていても何十分かに一回、浮上して息を吸わないと溺れてしまうんです。じゃあ、いつ寝ているのかというと、クジラは半分寝て半分起きている状態で泳ぐそうなんです。その状態で見るクジラの夢って何だろうと妄想したのが、『くじらと見た夢』というタイトルに繋がりました。僕は、演劇は「夢」のバリエーションだと思っています。世阿弥がまとめた能は亡霊の物語で、ある場所に思いを持った何者かが現れてその場所で立ち会う者たちに見せるイリュージョンだと考えています。つまり「誰かの夢」ではなく所有格を外した「場所の夢」という考え方です。僕が想像上の「くじらの見る夢」に惹かれるのは、その「所有格なき夢」と似ているから。半分眠っていて半分起きている状態が、夢と現実の境目が無くなるさまと似ているところに惹かれました。
 和歌山・太地で、入り江に追い込まれたイルカたちが逃げようとしない様子も見ました。クジラやイルカは知能が高いと言われていますし、網はすごくゆるくて隙間だらけで、簡単に飛び越えられるし、突き抜けることもできるのに……。集団心理が働いているのか、知能が高いからこそ「諦める」ことを知っているのかもしれませんが。ただ、このイルカたちの様子が、今の日本人の状況と重ね合わせることができ、怖いと感じました。つまり、戦争が起こってどこかの国の人を殺してしまうかもしれない状況になりかけている今、阻止することもできるのに、雰囲気として「もういいよ。しょうがないよ」ってなりかけている今の状況と。これから何十年か先の後世の人に、あのときの日本人は何していたの、半分寝てたんじゃないのと思われるぐらい、なんだかすごくボンヤリしていて、幻想と現実が混在しているのではないかと危惧します。幻想が良いときもあるし、イリュージョンの楽しさもあるけど、反面、現実を見ていない怖さでもある。それは名護湾で漁業をしている人たちが、辺野古湾側の米軍基地のことは自分たちの生活と直接関係ないし、漁業補償のお金は振り込んでくれるから貰っているだけだと、結果として心ならずも受け入れる立場に回ってしまうことともよく似ている。クジラの夢が日本の現状を鏡のように映しだすのではないか、そして二つの海をもった名護の姿が、僕らの矛盾を目が覚めるように「これが現実だ」と見せてくれるんじゃないか、そう思っています。
 
■フィクションだけでなくリアルを知るために
 今回、沖縄のイルカ漁や漁師たちを取材して、沖縄自体が持っている複雑さや奇妙な秩序のあり方、それらの特質と面白さが、やっと、にゅっと立体的に見えてきた気がしています。物語は事実と現実への向き合い方について、圧倒的な情報量でパズルをするかのごとくどんどん進みます。僕らは、演劇なら演劇、映画なら映画のなかだけのもの、つまりフィクションはフィクションで楽しみたいと思いますよね。現実の問題が関わると疲れるからで、あまり考えたくないって思いがちですよね。だけど、やっぱり関わらないといけないんです。そういうことを今回、すごく思いました。だから、自分でもここまでしていいのかと思うぐらい、フィクションとしての演劇じゃなく、よりリアルなものに向かった作品に仕上がりました。その一方で、夢見る者たちの、海やクジラへの憧れがいっぱい詰まった作品にもなっています。アングラ演劇的な大仕掛けも最後にあるので、楽しみにしていてください。
 
燐光群 創立35周年記念公演VOL.1
『くじらと見た夢』
作・演出/坂手洋二
 
2017年12月
15日(金)19:00
16日(土)14:00/19:00
17日(日)14:00
 
詳細はこちら
 
 

笠井友仁(エイチエムピー・シアターカンパニー)インタビューを掲載しました。

【提携公演】
エイチエムピー・シアターカンパニー
〈現代日本演劇のルーツ連続上演〉
『四谷怪談 雪ノ向コウニ見タ夢』
『盟三五大切』

11月30日(木)からの連続上演にむけて、演出・舞台美術 の笠井友仁さんへのインタビューを掲載しました。

■インタビューページはコチラ →  [コチラ]

平成29年度次世代応援企画break a leg 選考結果について

「平成29年度 次世代応援企画break a leg」
参加団体の選考結果について
 
 
参加団体を募集しておりました「平成29年度 次世代応援企画break a leg」につきまして、たくさんのご応募をいただきありがとうございました。
選考の結果、次の団体がアイホールに登場いただくことになりました。
 
 
■選考団体名【活動拠点】/日程
○アマヤドリ【東京】/平成29年5月25日(木)~28日(日)
○無名劇団【大阪】/平成29年6月8日(木)~11日(日)
○劇団あおきりみかん【愛知】/平成29年6月22日(木)~25日(日)
 
 
掲載の日程は公演日とは異なります。
公演の詳細が決まりましたら、改めてご案内いたします。
今後も、「break a leg」にご注目ください。

「MUM&GYPSY 10th Anniversary Tour 」関連企画 レクチャー
日程変更での開催について

去る8月7日に、台風5号の影響により開催を見あわせました、
マームとジプシー関連企画/レクチャー「日本の現代演劇と、マームとジプシーの10年」につきまして、
以下のとおり、日程を変更して、開催することとなりました。
みなさまのご参加、お待ちしております。
アイホール
 
変更日時|平成29年9月14日(木)19:45~21:30
     ※受付開始・開場は19:30~
会場|アイホール カルチャールームB
金額|500円
   ※ワークショップ参加者(抽選)は無料。
    ワークショップ受講料は一律2,000円に変更します。
定員|30名(先着順)
受付開始|平成29年8月26日(土)10:00

生田萬+サリngROCKインタビュー

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AI・HALL自主企画として2016年9月15日(木)~19日(月・祝)に、現代演劇レトロスペクティヴ<特別企画> AI・HALL+生田萬『夜の子供2 やさしいおじさん』の上演を行います。アイホールディレクターの岩崎正裕を司会に、作・演出の生田萬さんと出演のサリngROCKさん(突劇金魚)に、作品についてお話いただきました。


 
■「現代演劇レトロスペクティヴ」の趣旨

 

岩崎正裕(以下、岩崎)「現代演劇レトロスペクティヴ」は、今年で7回目になります。この企画は、1960年代以降の時代を画した現代演劇作品と、関西の演出家が出会うという企画です。なぜ、今年は<特別企画>なのかというところですけれど、正直に申しますと、作品はまだまだたくさんあるんですけど、関西の演出家で「レトロスペクティヴ」をやることによって、自分の作品づくりにこれから繋げていこうという人たちは、とりあえず大体やっていただいたかなあという感じがあったのは確かです。それで、いろいろとアイホールの中で議論をしたところ、「戯曲を書いた本家本元の作家に来ていただいて新しい俳優たちと出会うことで、また新しい演劇が生み出されるのではないか」と、そういう可能性で今年はやってみようじゃないかということになりました。そこでお名前が挙がったのが、ここにいらっしゃる生田萬さんです。生田さんは、扇町ミュージアムスクエア(OMS)があった頃、頻繁に来阪された劇団「ブリキの自発団」の代表でもいらっしゃいました。今は、東京杉並区の「座・高円寺」という劇場の劇場創造アカデミーのカリキュラム・ディレクターをやっていらっしゃいます。日々、若者と出会って新しい演劇をつくり続けていらっしゃる生田さんに、ここはぜひお願いして作品をつくってみようということになりました。生田さんにもご快諾いただきまして、この夏の暑いあいだ、アイホールで稽古に励んでいただいているというところです。

リオのオリンピックで世間は非常に盛り上がっておりますが、この作品は、前回1964年の東京オリンピック前夜を描いたお芝居です。なので、その60年代前半の時代と現代を重ね合わせることで、どのような現代社会が浮かび上がってくるか、それもひとつの仕掛けになるのかなと思っています。そして、オーディションで選ばれた若い人たち、まだ経験値の少ない俳優たちに対して、生田さんから毎日叱咤激励が飛んでおります。もう片方には、サリngROCKさんを含め、関西では熟練の俳優さんたちに出ていただきます。若手と中堅、ベテランが一緒にやるという企画は、プロデュース公演でないとなかなか実現しないものですから、今回そういう部分でも生田さんにまとめていただくことで、関西の演劇状況を刺激することに繋がるのではないかと思います。

 

■今の時代に『夜の子供2』をやること

 

生田萬
生田萬

生田萬(以下、生田)かつてOMS戯曲賞受賞作は、プロデュース公演をするというところまでがセットになっていたんですけど、諸般の事情で取りやめになって、その最後となる公演が樋口ミユさんの『深流波―シンリュウハ―』という作品でした。それの演出をやらないかと言っていただいて、一カ月以上滞在して大阪の演劇人たちと作品をつくった経験があります。岩崎さんが今回の企画で僕の名前を思い出してくださったのも、そのときのことが頭の片隅にあったのかなあと思っています。関西にたったひとりでやってきて完全にアウェーなんですけど、結構、好き放題やらせていただいています(笑)。

自分の昔のことを思い出したりするときに、懐かしさよりもどこか若気の至りにポッと頬を赤らめるような、そんなことが多々あるんじゃないかと思いますけど、今回『夜の子供2』を、と言われたときに頬がポッと赤らみました。ほんと若さの特権を振りかざして馬鹿なことやってたなあと…。正直、読み直してみて、演出してみたい気分はかけらも起きなかった。「好きじゃない」というのが素直な印象でした。でも、チョー苦手な女性に一方的に言い寄られて、「生理的にムリムリ」と拒絶すればするほど、次第に相手に情がうつるなんて経験、よくありますよね(笑)。いや、よくあるかどうかはさておき、今はそんな状態で、たぶん本番のときにはどっぷり捕まっちゃって、もう抜き差しならないところまでこの作品を愛してるんじゃないかなあと思います。

 

ただ初演が90年なのでずいぶん時間も経っていて、作品をとりまく環境もかなり変わっている。ひとつには芝居のつくられかたの変化。かつては芝居は劇団でつくるのが当たり前でしたが、今は、特に若い演劇人のあいだではユニットを核にしたプロデュース公演が主流です。実は今回、一週間でバタバタと全部のシーンを当たって通し稽古をやりました。僕の経験でもないぐらい無茶なことをやったんですけど、そのときに改めて「これは劇団力を前提とした作品だ」というのを感じました。劇団に蓄積された経験を共有する同志的な結合、とでもいいますか、その前提抜きに今回は作品をつくる。そこに「いま」が現れたらいいなと感じています。あと、座・生田萬高円寺で若者と接している中でも思うことですけど、俳優を志す人たちの身体感覚がずいぶん変わったなという感覚があります。“舞台の上で屹立する身体”みたいなイメージというのが、今の若い演劇人には持ちづらいんだなあ、舞台の上の身体の緊張・弛緩を含めたメリハリ、強弱、緩急みたいなものが、この戯曲を書いたときとずいぶん変わってるんだなあ、というのを日々感じているし、今回の稽古を始めても感じていることです。それはどっちがいいとか悪いというのじゃなくて、ある時代性の話だと思うので、今の身体感覚でこの作品がどう出来るかというのをこれから探していこうとしているところです。

 この作品は、1964年の東京オリンピックのときのことを、二十世紀最後の年の大晦日に振り返ってマンガに描いている作家のお話です。「さよなら、ニジッセイキ」――「二十世紀」じゃなくて「ニジッセイキ」なんですけど――がメッセージです。じゃあこの作品は「ニジッセイキ」、それは言い換えれば、一体「なに」にさよならを言っているのかということなんですが、これを書いたときと今ではまた全然変わってきているので、それを探せたら、この作品を今やることの意味があるのかなあと思ってます。僕は結構、根がアツ苦しいもので、昭和のアツ苦しさで平成の若者たちに今、ガンガン迫ってます。そのうち化学変化を起こして、「劇団っぽいね、今の感じ」みたいなところまでいけたらいいと思って実験しています。皆さんもご承知のとおり、今、劇団制なるものがどんどん衰退していて、新たに演劇を志す人々から、劇団は重苦しいとかウザいなあとかダサいなあという感じに思われているのが現状だと思うんです。でも劇団の功罪をどこかでちゃんと検討したほうがいいというのもあって、今、その劇団ノリにこだわってつくっているところです。

岩崎:生田さんの稽古って、人間を信じてるな、と僕は思ってます。やっぱり劇団にこだわってらっしゃった世代ですから、「簡単に答えを求めない」という趣旨に基づいて稽古が進んでいて、とてもとても膨大な時間のかかる稽古だなあ、演劇の時間ってすごいなあということを感じています。

 

■稽古場では…
サリngROCK(突劇金魚)
サリngROCK(突劇金魚)

サリngROCK(以下、サリng)わたしの役柄は、ニジッセイキ最後のマンガを描いているマンガ家の役です。この作品は、台本を読んだときから言葉がすごく詩的でいいな、と思ったのもあるんですけど、今、生田さんが喋っている言葉に対しても、「ああ、そういう語彙を使うんだ」と、一個一個の使われている単語がいいなと思います。劇中で歌ったり踊ったり、演奏したりするシーンがあるんですが、その選曲で生まれる世界観や、生田さんがのせる歌詞のひとつひとつが素敵で…。教室のシーンでも、小学生たちのわちゃわちゃした感じだったり、ふたりの少年がお互いのことを思い合っているけど、そこからそのふたりは次どうしていきたいか本人たちもよくわかっていないみたいな、そういう関係のイメージとか、舞台上に現れるものがすごくわたしの好みで面白いです。経験したはずないけど懐かしいような、思ったことのない感情なのにその甘酸っぱさを感じたことがあるような、そういう感情が呼び覚まされるところに楽しみを持って観られる舞台だと思います。

岩崎:1964年の世界と、マンガ家が存在する時間が往還するという、80年代演劇のひとつの特徴的な形だとも言えると思いますけど、その一方の世界を担ってらっしゃるのがサリngROCKさんということになります。

生田:小劇場は主宰がホンを書いて、演出もやって、下手をすると主演もやっちゃう、みたいな一極集中なつくりかたで、ホンをつくるときも、劇団のメンバーにあて書きするということがままあります。この作品も、サリngさんにやっていただく役は、銀粉蝶という女優にあて書きしたものです。だからといって今回、別に銀粉蝶がやったようにサリngさんにやってほしいとは当然思わなかったし、まず彼女がどういうふうにホンを読んで、どういうふうに演じてくれるかを見て、いろんなことを考えていこうと思ったんです。これからする話は、うちの奥さん(銀粉蝶)には言わないでほしいでんすけど(笑)、サリngさんのやっているのを見て、「ああ、そういうことか!」という新しい発見がたくさんありました。銀粉蝶が絶対にやらない、つまり、僕が想像しなかった役のイメージをどんどんこっちに提出してくれるので、僕にとっては今すごくいい刺激になってます。

撮影:中才知弥(Studio Cheer)
撮影:中才知弥(Studio Cheer)

この作品は、マンガ家が描いた世界の中の主人公の「ぼく」の前に、ある日、「ぼく」と正反対の「もう一人のぼく」がやってくるというお話です。主人公の「ぼく」は存在感が薄くて、自分は透明人間だと思っているような子なのですが、いきなり現れた転校生が「ぼく」と正反対の、ピッカピカのオーラ出まくりで、何もしないのに人が注目してしまうような子なんです。それを片桐はいりにあて書きしました。今回やるにあたって、どんなに上手な役者さんでも、はいりにあて書きした役を
そのまま再現するのは不可能だろうと。技術ではどうにもならない。そこで、演劇の経験はないけど意欲のある子に、新しい発見、新しい役との出会いをしてもらおう、そっちのほうがこの作品に相応しいんじゃないかと思って、オーディションでほとんど舞台経験のない女の子を選んで、いま想像以上の大苦戦を強いられています(笑)。

これはまったくの余談ですが、今回、改めてホンを読んでみたら、全部僕の実人生にあったことを書いてるんですね(笑)。書いたときは自覚がなかったんですが、親父が“蒸発”したり、いろんな悲惨な事情が重なって、自分は逃亡者だと思いながら小学校時代の大半を過ごしてたんですけども、そういう僕の前にある日、僕と同姓の転校生がやってきて、僕と正反対でいきなりクラスの人気者になっちゃったんです。まあ、そんなもろもろのエピソードがびっしり入ってるので、びっくりしちゃいました(笑)。

岩崎:生田さんの稽古は、最初に台詞が全部入った状態から始めようよ、ということになっていて、サリngさんも膨大な台詞を、すでに全部覚えているんです。

サリng:もう、めっちゃ不安でした(笑)。

岩崎:台詞覚えのためのワークショップというのを受けてもらって稽古に臨んでいるので、実は今、誰も台本を持っていないという恐ろしい状況です。

retro28_1生田:それは、ぜひ大阪の若い演劇人に、「こういうふうにやるといいよね」と思ってほしくて。稽古初日に台詞が完璧に入っているというのは、一番理想じゃないですか。でもなかなかそういかないことの原因のひとつに、「作・演出」というのもあるのかなと思います。とりわけ僕なんか台本が遅いものですから、この作品を書いた時もめちゃくちゃ遅くて、まだホンが全部書き上がってないのに稽古始まっちゃったーなんていう状態で、俳優に「なんだお前、台詞入ってないのか!」なんて言えないんですよね(笑)。だから僕はやっぱり、作家と演出家と俳優が対等な三角形で向き合って現場を維持するのが、演劇にとって一番健康的だと思うんですけど、さっき言った歪な一極集中の温床に劇団がなってしまうところがあった。でも、それは劇団制に問題があったんじゃなくて、作家が演出家も兼ねる「作・演出」というシステムの弊害なんです。とにかく、台詞も入っていない状態では、演出家は何にも出来ないんだっていうことを、ぜひ若い演劇人に知ってほしいです。で、俳優が台詞入れてきたはいいけど、自分ひとりで勝手に色付けて感情乗っけて意味も見つけて覚えちゃうと、稽古場で邪魔になるんですよね。なのでニュートラルな状態で台詞を覚えるメソッドを、高円寺の「劇場創造アカデミー」では教えてまして、だから、この方法を知ってほしいというのもあって、宣伝になっちゃいましたけど(笑)、そういうワークショップを何回かやって、今回の稽古が始まったという感じです。

岩崎:ちなみに僕も今回は特別出演させていただきます。たぶん台詞は十個にも満たないと思いますが(笑)、医師の役です。で、同じく特別出演で、高橋恵さん(虚空旅団)が看護婦の役です。そして蟷螂襲さん(PM/飛ぶ教室)が、池で亡くなった少女の父親の役です。

生田:岩崎さんや高橋さん、蟷螂さんやサリngさんといった、関西の最前線で活躍されてる演劇人が参加してくださるので、その意味でもぜひ興味を持ってくださるお客さんがいっぱいいたらいいなあと思っております。

 

■質疑応答

Q.この戯曲をやろうと決めたのはアイホールですか? この作品を上演しようと思ったのはどういう意図からですか?

岩崎:ご提案をさせていただいたのはアイホールです。単純に言えば、東京オリンピックのことで日本がこれからどんどん沸き返っていくというのがあります。その時代性において、現在とこのホンが二重写しになるような世界観が築けるんじゃないかなと。そういうことをアイホール館長が東京まで乗り込んで、生田さんと長い長い時間話して、それでこのホンに決まったという経緯があります。

生田:僕はこの現代演劇レトロスペクティヴの企画はずっと知っていたので、演出の仕事をオファーいただいたのかなと思って「とても光栄です」と言ったんですけど、僕のホンをやりませんかと言われたので、「いや、やめましょうよ、それは」とかなり抵抗したんです。けれども、さっきの「東京オリンピック」という一言で「ああ、そうかもしれない」と、つい煙に巻かれて引き受けてしまいました(笑)。でも、何だったんでしょうね二十世紀って。日本人は西暦で区切るよりも元号で区切ったほうがいいと言う人もいるし、そうすると日本人にとっての二十世紀は、大正・昭和ということになるのかもしれない。「さよなら、ニジッセイキ」の「ニジッセイキ」には、「さよなら、昭和」というメッセージに近いものがあると思います。「追いつけ追い越せ」って日本人の一番得意なパターンだと思うんですけど、それのひとつのピーク、象徴が東京オリンピックだったような気がしています。追いついちゃったらどうしていいかわかんない、というのが今だとしたら、その「追いつけ追い越せ」の象徴としての東京オリンピックを取り上げた作品を今やることで、これから四年後の東京オリンピックとは何だろうということを当然考えることになるだろうし、何かが見えてくる気がします。

岩崎:俳優たちと一緒に考えようというふうに稽古を進められている印象がありますね。

retro28_2生田:大変ですよ、何言ってもポカーンとして。彼らが全然知らないことばかりですからね。だから、おじいちゃんが孫に話してるみたいになっちゃう(笑)。でも、「そうかそうか、昔はな…」というのは絶対しない。「おまえ、こんなことも知らないのか!」って態度で攻めてます。東京オリンピック自体、リアルタイムで経験してるのは僕くらいしかいないんですけど、でもリオ・オリンピックも、微妙にこの現場に反映してくるのを感じています。東京にいると、「オリンピックなんてどうしてやるの?」みたいな空気を感じることが多いんですけど、毎日メダルに沸き立っている今回のリオの様子だと、次の東京オリンピックに対する期待感も結構膨らんじゃうんじゃないかなと思います。

 

Q.サリngROCKさんがオーディションを受けた理由をお教えいただけますか。

サリng:「こんなオーディションがあるので受けませんか」とアイホール館長から教えてもらったのもあるんですけど、ひとつは、生田さんの演出に興味があったからです。関西にいながら東京の演出家の演出を受ける機会もあんまりないですし、わたしは普段あまり俳優をやってないものですから、他の方が演出してる現場を見ることもほとんどないので、いい機会だと思いました。生田さんの演出は、すごく腑に落ちます。さっき岩崎さんも仰ってましたけど、とても人間を信じてる。ついつい、「とりあえず一旦、これがわかればいいかな」みたいなことを、普通だったら言っちゃうような気がしてしまうんですけど、そこはもう「一旦」にせず、「何で出来ないんだ!」「来い!」みたいな(笑)。手をまず差し伸べないんです。差し伸べるほうが簡単そうなのに、そうしないのがすごいなって思います。

 

Q.作品の改訂はありますか?

生田:ほとんど変えないつもりなんですけど、ラストシーンだけ、どう考えてもこれじゃ終われないので直しました。この作品、本当に書けなかったんですよ。そのしわ寄せがラストに来てるなあ、と。当時、『しんげき』(白水社)という雑誌がありまして、そこにこの作品を掲載していただけるということになっていて、その締切があったというのもあるんですが(笑)、とにかく終わらせなきゃいけないという、その勢いだけで書いてしまった部分があります。いつも劇団では、最初の部分だけ書いて、稽古しながら次のシーンを考えてきて…というやり方になっていたので、前半ではこれ以上もう入らないというくらい大風呂敷を広げて、後半に入るとそれを全部拾い集めるということになってくるわけです。でもこの時はもう集めきれなくて、力技で終わらせようというふうになっていたので、そこは今、もう少し客観的にコンテクストや全体の流れを見られますから、「この作品にもっと相応しい終わり方があるよ」と90年代の僕に言おうと思っています。

僕がホンを書くときの理想は、自分の言葉をひとつも入れないで書くことです。たとえば、「え? あ、はい」という台詞があったとしても、この「え?」は誰々の本の「え?」で、この「あ、」は誰々の…というように、全部引用のセレクションとコンビネーションで一本の作品をつくれたらいいなあと思っているんです。だから今回の作品も読んでみると、他人の言葉のコラージュだし。欧米なんかだと、「二十世紀は演出家の時代だ」なんて言い方がありましたよね。日本の土壌ではあまりピンと来ないかもしれないけど、「演出家の時代」ということを僕なりに解釈すれば、「あらゆることはすでに表現されつくしている。今や表現者の為すべきことは、すでにあるものの中から何を選んでどう組み合わせるか、そのセレクションとコンビネーションこそ二十世紀の<創造>だ」という意味かなあと思っています。このホンはほんとにそうやって書いたので、「ニジッセイキ」に「さよなら」したら、どこに行ってしまうんだろうというのも、二十一世紀的なクリエイションとして、この公演の宿題ですね。

撮影:中才知弥(Studio Cheer)
撮影:中才知弥(Studio Cheer)